伝記
レオ・シラードは、1898年2月11日にオーストリア=ハンガリー帝国のブダペストで生まれ、1964年5月30日に没したハンガリー生まれのアメリカの物理学者、分子生物学者である。1939年に、アインシュタインを通じてルーズベルト大統領に進言した「アインシュタイン=シラードの手紙」により、原子爆弾開発のきっかけをつくった人物として知られる。
土木技師の父ルイ・シュピッツと母テクラの、三人兄弟の第一子として生まれた。2歳のとき、政府による改名の圧力のため、姓をハンガリー風のシラードに改めた。母方の叔父は建築家のヴィドル・エミルで、レオは叔父の最初の作品である大邸宅で、母の両親や姉妹の家族とともに少年期を過ごした。1908年に8年制の技術系高等学校に入学した。1914年7月、16歳で第一次世界大戦が始まると、すぐに、この戦争は同盟国側の敗北で終わるはずだと周囲に公言し、兵士を満載した輸送列車を見て「熱狂はあまり見えないけど、酔っ払いなら大勢見える」と言って、無神経だとたしなめられた。後年、判断の明晰さとは感情にとらわれないことの問題で、このとき以来、不誠実であるよりは無神経であることを選ぼうと決めたと回想している。1917年に士官候補生として徴兵され、オーストリアの山岳地帯で訓練中に重い流感にかかって故郷で療養するうちに、前線に送られた所属部隊が全員行方不明になったと聞き、あやうく難を逃れたことを知った。戦後のハンガリーは政情が混乱し、激しいインフレで一族の資産も失われた。1919年にクン・ベーラのソビエト政権が成立したが、横行する暴力や経済政策の硬直に幻滅した。ホルティの国民軍が政権を握ると、ユダヤ人への迫害が始まり、レオは直前にプロテスタントへ改宗していたにもかかわらず大学から締め出された。そこでブダペストを離れ、ベルリンで学問を続けようとした。
1922年の博士論文は熱力学第二法則に関するもので、半年後の論文では、長く難題だったマクスウェルの悪魔を扱い、エントロピーが観測で得る情報の概念と直接につながっていることを示した。この指摘は、1940年代後半にシャノンが情報理論にエントロピーの概念を導入するまで、長く忘れられていた。論文よりも特許の申請を好み、電子顕微鏡、線形加速器、サイクロトロンなどのアイデアを特許にした。アインシュタインと親しく、冷蔵庫用の可動部のないポンプを共同で設計して、連名で特許を取った。
1933年、ドイツを逃れて間もなく、中性子による核連鎖反応の可能性に思い至った。これは核分裂の発見に6年先立っていた。1934年には浴槽で思索にふけるうち、核反応生成物を分離する方法を思いついた。1939年にウランの核分裂が発見されると、フェルミらと実験を進め、二次中性子の放出を確認した。マンハッタン計画の初期にはフェルミらと世界初の原子炉の実現に力を貸したが、計画を指導した陸軍との確執が深まるとともに、政治的な活動に深く関わるようになった。第二次世界大戦の末期には、無警告での日本への原爆投下を阻止しようとして活動した。戦後は核軍備管理の問題に積極的に取り組み、世界政府の実現や世界法の制定による戦争の廃絶を理想としたが、晩年までその見通しは暗いものと考えていた。熱力学から核物理学、分子生物学まで、広い分野で創造的なアイデアを出すことを楽しんだ「知的放浪者」であった。
同じ年に亡くなった人物
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- ヴァルター・ブルーメ (航空技術者) (1964年没)
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