伝記
パウロス1世は、1901年12月14日にアテネで生まれたギリシャ王国の国王である。コンスタンティノス1世と、ドイツ皇帝フリードリヒ3世の娘ゾフィーの三男だった。曽祖父にデンマーク王クリスチャン9世と英国女王ヴィクトリアを持つ国際的な王室に育ち、母語は英語で、現代ギリシャ語は第二の言語として学んだという。三男として生まれたため王位に就く予定はなく、教育は兄たちより簡素だった。外国人の家庭教師や、国王ゲオルギオス1世が選んだギリシャの大学教授に学び、1911年から1914年までは英国の寄宿学校の夏期の講習にも通った。学業は平凡だったが、大工仕事のような手作業に才能を示した。父は彼を海軍に進ませようとして英国の海軍兵学校への入学を交渉したが、第一次世界大戦の勃発で実現しなかった。のちに海軍士官としての教育を受けた。
幼いころから政情の不安定な時代を生きた。7歳の1909年には軍人たちが祖父の政府に対する「グーディの政変」を起こした。1917年から1920年までは父王とともに、1923年から1935年までは兄ゲオルギオス2世とともに亡命生活を送った。ギリシャ国籍を奪われてデンマークの旅券を持ち、ルーマニア、イギリス、イタリアなどに住んだ。この13年間は公職がなく、ピアノを学び、エーゲ海を身分を隠して長く船旅し、航空機産業の整備の見習いとして働いたこともあったという。1935年に兄が王位に復帰すると、子のない兄に代わる王位継承者となり、結婚を促された。1938年1月9日、ハノーファー王家の血を引くブラウンシュヴァイク公の娘で、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の孫娘にあたるフリーデリケと結婚し、1男2女をもうけた。長女ソフィアはのちにスペイン国王フアン・カルロス1世の妃となり、長男がコンスタンティノス2世である。
1940年にイタリアが、翌1941年4月にナチス・ドイツがギリシャに侵攻すると、政府はアテネを維持できずクレタ島へ遷都し、パウロスも兄とともに島へ渡った。しかし5月にはクレタ島にもドイツ軍が上陸し、2人はエジプトを経てイギリスへ亡命した。占領下の戦時中はロンドンとカイロの亡命政権に身を寄せ、カイロからギリシャ国民へメッセージを送り続けた。1946年に帰国し、ギリシャ内戦のさなかの1947年4月1日、兄ゲオルギオス2世が心臓発作で急死したため王位を継いだ。従弟のフィリップ・マウントバッテンとエリザベス王女の婚約が発表されたのはそのすぐ後で、同年11月20日にロンドンで行われた結婚式には、腸チフスを患って出席できなかった。
王政派に加えて共和主義者の支持も得て、1949年までに民主軍との戦闘を事実上終結させ、特に被害の大きかった北部の建て直しを始めた。1950年代にはギリシャ経済が回復し、自身の外遊でこれを側面から支えた。長年の敵対国トルコを国家元首として初めて訪れたのも彼である。しかし内政では問題が多かった。1955年に自らの肝煎りで首相に任じたカラマンリスを、1963年には王妃との確執を理由に突如解任し、以後ギリシャ政局は混乱を増して、のちの王政廃止の伏線となった。1964年3月6日、胃癌のため62歳で世を去った。
同じ年に亡くなった人物
- J・B・S・ホールデン (1964年没)
- ゲンリフ・ネイガウス (1964年没)
- パウル・フォン・レットウ=フォルベック (1964年没)
- ヴァルガ・イェネー (1964年没)
- フランス・エーミル・シランペー (1964年没)
同じ地域に関係する人物
- ソクラテス (紀元前399年没)
- ペイシストラトス (紀元前527年没)
- シラニオン (紀元前360)
- スピロス・マルケジニス (2000年没)
- クリストフォロス (ギリシャ王子) (1940年没)