伝記
ジョン・バードン・サンダースン・ホールデンは、1892年11月5日にオックスフォードで生まれたイギリスの生物学者で、普通はJ・B・S・ホールデンと呼ばれる。スコットランドの名門ホールデン家の出で、父は呼吸の研究で著名な医師・生理学者のJ・S・ホールデンである。父は彼をごく幼い頃から一人前の実験助手兼被験者として扱い、息子の血液を研究材料にしたり、地下鉄の空気汚染の調査でロンドンの地下へ同行させたりした。4歳になる前、怪我をした額から流れる血を見て泣かず、「これは酸化ヘモグロビンなの、炭酸ヘモグロビンなの」と尋ねたという。8歳のときには、再発見されたばかりのメンデルの法則の講演会へ父と行き、「難しいが、面白い」と評した。名門イートン校に進むと、成績は群を抜いていたが、そのためにいじめを受け、連日殴られ、父との面会日には同級生に誘拐、監禁された。そのとき彼をかばって、そっとリンゴを渡してくれた先輩が、ジュリアン・ハクスリーだった。オックスフォード大学では古典文学を専攻する手続きをとったが、数学と動物学に熱中し、さまざまな授業に出た。
22歳で第一次世界大戦が始まると、フランスの西部戦線に配属されたが、間もなく負傷して帰国し、手榴弾学校の運営を任された。傷が癒えきらないうちにイラクの中東戦線に出征してトルコ軍と戦い、その間に社会主義に目覚め、のちには共産主義に惹かれることになる。ここでも負傷し、インドの病院に送られて、ベッドの上でウルドゥー語を学んだ。父の要請で一時帰国した際には、共にドイツ軍の毒ガスを研究している。
大戦後はオックスフォード大学で生理学を教え、父の実験を援護するため、炭酸ナトリウムや塩化アンモニウムの水溶液を大量に飲むなど、自らを被験者とした過酷な人体実験を行った。1919年にニュー・カレッジのフェローとなり、1922年にケンブリッジ大学へ移り、1932年からはユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで研究した。ダーウィンの自然淘汰説とメンデルの遺伝の法則を理論的に結びつけ、現代の集団遺伝学の基礎を築いた。ヨーロッパ各王室の系図を調べて、血友病が突然変異で起こる病気であると突き止めた。1925年にはブリッグスとともに、酵素反応速度論の基本であるミカエリス・メンテン式の新たな導出法を示した。1932年の著書『進化の要因』は、メンデルの法則を基本に自然淘汰による進化を数学的に説明したもので、ネオダーウィニズム総合説の代表的な著作として知られる。同じ年に王立協会のフェローに選ばれた。独立にオパーリンとほぼ同様の、生命の起源についての説も発表している。一般向けの本も多く書き、1923年の『ダイダロス、あるいは科学と未来』は、科学の未来を予測したものとして有名で、この書は友人オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』にも大きな影響を与えたとされる。
1928年にソビエト連邦を旅し、唯物論的な思想を抱いていたことから共産主義に惹かれて、1937年にイギリス共産党に加わった。しかし、ルイセンコとスターリンの独裁の犠牲となったヴァヴィロフの悲劇を知り、1950年に党を去った。1926年に結婚した妻とは1945年に離婚し、のちに共同研究者のヘレン・スパーウェイと再婚した。のちに育てた弟子にはジョン・メイナード=スミスがいる。1957年にスエズ動乱への抗議と称して大学を辞し、かねて憧れていたインドに移り、インド統計大学などで教え、1964年12月1日にオリッサ州ブヴァネーシュヴァルで亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ハーバート・フーヴァー (1964年没)
- アウグステ・フォン・バイエルン (1875-1964) (1964年没)
- コリン・マクフィー (1964年没)
- フラナリー・オコナー (1964年没)
- オラヴィ・パーヴォライネン (1964年没)
同じ地域に関係する人物
- Kelucharan Mohapatra (2004年没)
- Jatindranath Mukherjee (1915年没)
- Nandini Satpathy (2006年没)
- チャイタニヤ・マハープラブ (1534年没)
- スワミ・スリ・ユクテスワ・ギリ (1936年没)