伝記
イアン・ランカスター・フレミングは、1908年5月28日にロンドンのメイフェアで、4人兄弟の次男として生まれたイギリスの作家である。祖父ロバート・フレミングはスコットランドで投資銀行を創業して成功した、金融界では知られた人物だった。父ヴァレンタインは議員で、当時議員だったウィンストン・チャーチルの友人でもあった。父は第一次世界大戦に出征し、1917年5月20日に西部戦線でドイツ軍の砲撃により戦死し、チャーチルはその追悼文を新聞に寄せている。兄のピーターは旅行作家となり、弟のリチャードとマイケルも第二次世界大戦で戦った。母が同じで父が異なる妹には、チェロ奏者のアマリリス・フレミングがいる。
フレミングは6歳で寄宿制の予備校に入ったが、食事のまずさや体の苦労、仲間からのいじめに悩み、学校を好まなかった。1921年に名門イートン校に入学し、学業は振るわなかったが、陸上競技で頭角を現し、2年連続で校内の最優秀選手に輝いた。校内誌の編集者も務めた。しかし夜遊びなどの問題行動から問題児と見なされ、寮の監督者の訴えを受けた母によって、予定より早く退学させられた。陸軍士官学校に進んだが、1年足らずで任官されないまま去った。その後はオーストリアで語学を学び、ミュンヘン大学やジェノヴァ大学でも短期間学んだ。外務省の入省試験には不合格となり、ロイター通信社に就職した。
1939年、海軍情報部の部長ジョン・ゴドフリー提督の私設秘書として働き始めた。中尉から少佐に昇格し、指揮官として諜報部隊を統括した。彼が計画し監督した奇襲補助部隊は、第二次世界大戦で活躍して連合軍に貢献した。また「ゴールデンアイ作戦」の計画にも関わっている。ただし実際の勤務は机の上の仕事が中心で、敵地に潜入する立場ではなかった。終戦後は、サンデー・タイムズ紙の親会社であるケムズリー新聞社に勤め、世界中に派遣されている特派員を統括した。雇用契約には毎年2か月の休暇が含まれ、その間はロンドンを離れてジャマイカの別荘で過ごした。
フレミングはこの休暇を使い、毎年1冊のペースで小説を書き上げた。1953年、戦時中などの経験をもとに、「ジェームズ・ボンド」シリーズの第1作となる長編『カジノ・ロワイヤル』を発表した。表紙をフレミング自身がデザインしたイギリスの単行本は大ヒットとなった。元子爵夫人のアン・チャータリスと結婚し、息子カスパーをもうけた。アンは作家との不倫が原因で前の夫と離婚していた。1961年、『ロシアより愛をこめて』が雑誌の記事でケネディ大統領のお気に入りの本10冊に選ばれ、これを機に売り上げが急上昇して、アメリカで最も売れている推理小説家になった。フレミングはこの作品を最高傑作と考えていた。同年6月にはボンド小説と短編の映画化権をハリー・サルツマンに売却した。映画でショーン・コネリーが演じたボンドは、小説のキャラクターにも影響を与え、映画公開後の最初の本『007は二度死ぬ』では、ボンドにユーモアの感覚が加わった。フレミングは作家ロアルド・ダールと親交があり、従兄弟には俳優のクリストファー・リーがいる。
食事の場面が克明に描かれた著作にふさわしく、本人も美食家だったと伝えられる。早くから心臓血管の疾患をかかえ、映画化された作品は第2作までしか見られなかった。1964年8月12日、『黄金の銃をもつ男』を校正中に心臓麻痺で亡くなった。56歳だった。『黄金の銃をもつ男』と『オクトパシー』は、死後に出版された。
同じ年に亡くなった人物
- ゾフィー・シャルロッテ・フォン・オルデンブルク (1964年没)
- ヨーゼフ・マルクス (1964年没)
- パウリーノ・アルカンタラ (1964年没)
- ダグラス・マッカーサー (1964年没)
- グル・ダット (1964年没)
同じ地域に関係する人物
- ドゥンスタン (988年没)
- フィル・リード (2022年没)
- ジョン・フレンチ (1925年没)
- オースティン・フリーマン (1943年没)
- デービッド・フロスト (2013年没)