伝記
チャイタニヤ・マハープラブは、15世紀から16世紀前半のインド、ベンガル出身のヒンドゥー教の聖人で、ガウディーヤ・ヴィシュヌ派の開祖とされる。クリシュナを賛歌の詠唱と踊りで崇拝する手法は、ベンガルのヴィシュヌ派に大きな影響を与えた。ラーダーとクリシュナが合わさった化身とみなされ、クリシュナの化身とされることも多い。バクティ・ヨーガを説き、ハレー・クリシュナのマントラの詠唱を広めたほか、8節から成る祈りの詩を著したという。またヴェーダーンタ学派の「不可思議な差異と非差異」の思想の主な提唱者とされ、この概念は後にジーヴァ・ゴースワーミーが著書で説明した。彼の生涯を再構成できる資料は、ガウディーヤ派の聖者伝だけであり、その多くが彼をクリシュナの化身とみなして書かれている。
1486年2月18日の夕方、現在の西ベンガル州ナディア県のナバドウィープで生まれたとされる。別の伝えでは日付は2月27日である。誕生は月食の満月の夜だったといい、この日はガウラ・プールニマーとして祝われる。父ジャガンナータ・ミシュラは、現在のバングラデシュにあたるシレット出身のバラモンで、高等教育を受け、ガンジス川のほとりに住むためにナバドウィープへ移った。母シャチデーヴィーは、学者で占星術師のニーラーンバラ・チャクラヴァルティーの娘である。それまでに生まれた8人の姉は幼くして死に、兄ヴィシュワルーパだけが生き残っていたと伝えられ、本人は10番目の子とされる。生まれた時の名はヴィシュヴァンバラだが、広くニマイの愛称で呼ばれた。ニームの木の下で生まれたことにちなむという。また、融けた金のような顔色から、ガウラやガウランガとも呼ばれた。
幼いころは、近所の女たちが神の名を唱えるまで泣きやまなかったという。足の裏には旗や金剛杵、法螺貝、円盤の印があり、母方の祖父はこの子がただ者ではないと予言したとされる。庭で毒蛇と遊んでいた、捨てられた鍋の山に座り、神に仕えるのに使えば不浄なものはないと母に教えた、盗人に宝飾品目当てでさらわれたが、彼らは惑わされて家の戸口に連れ戻した、といった逸話が伝わる。いたずらも好み、川辺で少女たちの服を隠したり、隣家の乳や米を盗んだりしたともいう。
5歳から地元の学塾で学び、サンスクリット語の文法とナヴィヤ・ニヤーヤ(新論理学)を驚くほど速く習得した。6歳から10歳のころに兄が出家して家を去り、11、12歳のころには父が亡くなって、家の責任を負うことになった。亡き父のための儀式を行うために向かう道中で、師となる人物と出会い、ゴーパーラ・クリシュナのマントラを授けられ、この出会いが彼の外見と思想を大きく変えた。ベンガルに戻ると、学者のようだった外見が信奉者のようになっていて、地元のヴィシュヌ派の信徒を驚かせた。その後、ベンガルを離れ、数年間クリシュナの名を唱えながらインド全土を放浪し、オリッサ地方のプリーに至って、生涯の残りの24年間をそこで過ごした。ガジャパティ朝の王は彼をクリシュナの化身として扱い、その朗読会の後援者となった。1515年にはクリシュナの失われた聖地を探してヴリンダーヴァンを訪れ、周辺のクリシュナゆかりの場所を見つけたと信じられている。1534年6月14日に没したとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハネス・アヴェンティヌス (1534年)
- アルフォンソ1世・デステ (1534年没)
- ヤン・マティアス (1534年没)
- バーソリー・イシュトヴァーン8世 (1534年)
- ジョン・ラスカリス (1534年)
同じ地域に関係する人物
- スワミ・スリ・ユクテスワ・ギリ (1936年没)
- Kelucharan Mohapatra (2004年没)
- J・B・S・ホールデン (1964年没)
- Jatindranath Mukherjee (1915年没)
- Nandini Satpathy (2006年没)