伝記
イブン・ハジャル・アスカラーニーは、ムスリムのウラマーで、ハディース伝承者である。ハディースの体系化に生涯を捧げ、その学問を総括した人物とされる。著作は、ハディース学、歴史学、伝記、聖典解釈学、詩学、法学の分野にわたって150点ほどにのぼり、ブハーリーの『真正集』への注釈書『ファトフ・アル=バーリー』がもっとも重要な著作とされる。「時代のハーフィズ」「イスラームの長老」などの称号でも呼ばれた。
1372年2月、フスタートで生まれた。日付は18日とも28日ともされ、カイロの生まれとする記述もある。父はシャーフィイー派のウラマーで詩人のヌールッディーン・アリーで、一族はもとアスカラーン(アシュケロン)の出身で、アレクサンドリアを経てエジプトに移った。両親は幼いころに亡くなり、イブン・ハジャルと妹は、父の最初の妻の兄弟ザキーッディーン・ハッルービーの後見のもとで育った。5歳のころからハッルービーの手ほどきでクルアーンの暗唱を始め、マルヤム章を1日で暗記し、9歳で全章を暗唱できるようになったという。12歳でハッルービーに連れられてメッカ巡礼を果たし、すでにラマダーン月のタラーウィーフ礼拝の導師を務められると見られていた。
1386年に後見人が亡くなると、ムハッディスのイブン・カッターンに教育が任された。イブン・カッターンの後見でブルキーニーとイブン・ムラッキンにシャーフィイー派法学を、イラーキーにハディースを学んだ。ダマスクスやエルサレムにも遊学し、カルカシャンディーら多くの師について諸学を修めた。メッカ、メディーナ、イエメンを訪れてからエジプトに戻った。スユーティーは、イブン・ハジャルが記憶力でザハビーに並ぼうとザムザムの水を飲み続け、ついにはザハビーより記憶力がよくなったといわれると記している。師は628人にのぼり、うち55人は女性だったという。1397年、25歳のとき、高名なムハッディサだったウンス・ハートゥーンと結婚した。彼女はイラーキーから修了証明を受け、公開講義を催すほどの学識ある女性だった。夫妻に娘5人、のちの妻にも娘1人が生まれたが、娘たちはみな彼の生前に亡くなった。三度目の結婚では、1412年にタタール出身の女性との間に、ただ一人の息子が生まれた。
イブン・ハジャルは、生涯のうちに何度か、エジプトの裁判官の長に任じられた。ハナフィー派の学者バドルッディーン・アイニーとは、学問上のライバル関係にあった。『ファトフ・アル=バーリー』は、イブン・ラジャブが1390年代に書き始めた未完の仕事を引き継いで完成させたもので、1428年12月のカイロでの初版発行は大いに祝賀された。歴史家イブン・イヤースが「同時代最大の偉業」と記すほどで、多くの高官が参列し、イブン・ハジャル自身が注釈書を読み上げ、詩人が称賛詩を献じ、金が配られた。教友の列伝『アル=イサーバ』や、エジプトの歴代裁判官の伝記『ラフウ・アル=イスル』なども著した。
1449年2月2日、ヒジュラ暦852年ズルヒッジャ月8日の夜の礼拝のあとに、79歳で亡くなった。カイロでの葬儀には、およそ5万人が参列し、マムルーク朝のスルターン、ジャクマクや、カイロのカリフ、ムスタクフィー2世も加わった。カラーファ・アッ=スグラー墓地に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- ペドロ・デ・ポルトゥガル (コインブラ公) (1449年没)
- Huma Hatun (1449年)
- Konrad von Erlichshausen (1449年)
- ウルグ・ベク (1449年没)
- Emine Hatun (1449年)
同じ地域に関係する人物
- ムスタンジド (1479年没)
- ゴットフリート・フォン・クラム (1976年没)
- Theognostus of Alexandria (282年没)
- ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・クルス (紀元前48年没)
- ホスニー・ムバーラク (2020年没)