HISTORICAL PERSON · 1965年没

李承晩

朝鮮の独立運動家で、大韓民国の初代大統領(在任1948年から1960年)。若い頃にアメリカ人宣教師の設立した培材学堂で学んだ。

生涯
1965年没
死亡地
アメリカ合衆国(ハワイ州 / ホノルル)
出生地
朝鮮民主主義人民共和国(平山郡)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ハワイ州)

伝記

李承晩は、1875年3月26日、現在の開城市近郊の黄海道平山郡で、全州李氏の没落した両班の家に生まれた。父の李敬善と母の金海金氏の3男2女の末っ子だったが、兄二人は天然痘で幼くして亡くなった。族譜では太宗の長男で世宗の兄にあたる譲寧大君の末裔とされ、王族の分家の出身であることを本人は誇りにしていた。少年期は科挙の合格を目指していたが、1894年に科挙制度が廃止されたため、アメリカ人宣教師が設けた培材学堂に入学した。1896年に結成された独立協会にも加わったが、協会は1898年12月に強制的に解散させられた。李承晩は1899年に逮捕されて拷問を受け、1904年まで獄中にあった。この間にプロテスタントの監理教会派に入信したとされる。

1904年に日露戦争が勃発し、日本が大韓帝国への影響力を強めるのを恐れた高宗は、アメリカに朝鮮の独立維持への援助を求めようとして、英語が話せた李を釈放し、派遣した。1905年8月、李はアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに面会している。そのままアメリカに残り、ジョージ・ワシントン大学、ハーバード大学を経て、1910年にプリンストン大学で政治学の博士号を取り、韓国人初の哲学博士になった。当時の総長がのちの大統領ウッドロウ・ウィルソンで、李を気に入り、自宅の懇親会に常連として迎えたという。その後、日本領となった朝鮮に戻り、ソウルのキリスト教青年会で宣教に当たったが、1年半ほどで、朝鮮総督暗殺未遂事件の関与を疑われ、再びアメリカへ渡った。1913年にハワイに居を構え、学校の職員として働くかたわら、独立運動に携わった。

1919年4月に上海で結成された大韓民国臨時政府の初代大総理に就任し、9月には臨時政府大統領となった。それまでほぼ無名だった李が選ばれたのは、民族自決を唱えたウィルソンとの人脈があると見られたからだと指摘されている。一方で李は、国際連盟による朝鮮の委任統治を提案し、左派の強い反発を受けて「第二の李完用」と非難された。1921年5月に上海を去り、やがて弾劾されて、1925年3月には大統領職も追われた。以後はアメリカでのロビー活動に専念した。1933年には満洲事変を討議する国際連盟総会に臨時政府の全権代表として出席し、1934年にはオーストリア人のフランチェスカ・ドナーと結婚した。1941年には『日本の内幕記』を著し、日本の対米宣戦を予告した。

1945年10月、日本の降伏後に、アメリカ軍政下の朝鮮半島に戻った。マッカーサーの専用機で帰国し、反共・統一を掲げて、アメリカの支持を受けた。1946年2月に大韓独立促成国民会を結成して総裁となり、1948年8月15日に朝鮮半島南部で大韓民国政府の樹立を宣言して、初代大統領に就任した。同年12月には国家保安法が制定された。1950年6月に朝鮮戦争が起き、国民保導連盟の加盟者や政治犯が多数殺害された保導連盟事件も、この時期のことと記録されている。1952年には「李承晩ライン」を設定し、戒厳令のもとで憲法改正を強行した。1953年7月に休戦が成立した。1956年に3選を果たしたが、1960年3月の大統領選挙は不正選挙として批判され、4月19日のデモでは死者が186人に上った。4月26日に下野を表明し、5月29日にハワイへ亡命した。1965年7月19日、亡命先のハワイで90歳で死去した。

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