伝記
チャールズ・オーガスタス・リンドバーグは、1902年2月4日にミシガン州デトロイトで、スウェーデン移民の息子として生まれ、ミネソタ州リトルフォールズで育ったアメリカの飛行家である。父チャールズ・オーガストは弁護士で、のちに共和党の連邦議会下院議員に当選し、孤立主義者として第一次世界大戦への参戦に反対した。母エヴァンジェリンは化学教師であった。幼いころから機械に関心を示したが、1922年には機械工学から離れ、ネブラスカ航空機でパイロットと整備士の訓練に加わった。その後カーティスJN-4「ジェニー」を買って曲芸飛行のパイロットとなり、1924年にはアメリカ陸軍航空隊で訓練を始め、一番の成績で修了した。1920年代には郵便機などの民間パイロットとして働いた。
1927年5月20日朝、リンドバーグはライアンNYPの機体「スピリット・オブ・セントルイス」に、サンドイッチ4つと水筒2本分の水、1700リットルのガソリンを積み、ニューヨークのロングアイランドにあるぬかるんだルーズベルト飛行場から離陸した。5月21日夜、パリのル・ブルジェ空港に着陸し、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功した。25歳であった。飛行距離は5,810キロ、飛行時間は33時間半で、ニューヨークとパリの間を無着陸で飛んだ者に与えられるオルティーグ賞と賞金25,000ドル、そして世界的な名声を得た。機体は燃料を多く積むため操縦席の前に燃料タンクを置き、前方は潜望鏡のようなものか側面の窓から顔を出して見るほかなかった。無名の操縦士で出資者が少なく、望んだ機材も用意できなかったための工夫であった。パリ上空で「翼よ、あれがパリの灯だ」と叫んだとされる台詞は後世の脚色とされ、この言葉は自伝の邦題に由来する。
1929年には駐メキシコ大使ドワイト・モローの次女アンと結婚し、6人の子をもうけた。1932年3月1日、1歳8か月の長男が自宅から誘拐され、身代金5万ドルを求める手紙が残されていた。10週間の探索と交渉ののち、5月12日にニュージャージー州ホープウェルで遺体が見つかった。2年後に逮捕されたリチャード・ハウプトマンは、無罪を主張したが死刑判決を受け、1936年4月3日に執行された。これに先立つ1931年には、パンアメリカン航空の依頼でアンとともに北太平洋航路の調査飛行を行い、カナダ、アラスカを経て日本と中華民国まで水上機で飛んだ。日本では霞ケ浦に着き、各地で歓迎を受けた。1935年には、生理学者アレクシス・カレルとの共同研究で「カレル・リンドバーグポンプ」を開発し、これは今日の人工心臓にも影響を与えたとされる。
第二次世界大戦前夜には、アメリカ軍の要請でナチス・ドイツを何度か訪れ、航空能力を評価した。1938年にヘルマン・ゲーリングから勲章を授与され、拒まなかったことで激しい批判を受けた。帰国後は孤立主義を唱えるアメリカ第一委員会の中心人物となり、1941年9月のデモインの演説では、アメリカを戦争に引きずり込もうとする勢力としてイギリス人とユダヤ人とルーズベルト政権を挙げた。これにユダヤ系アメリカ人が反発し、大統領は陸軍航空隊での委任を解除した。開戦後は復帰を拒まれ、民間人として戦争努力を助け、1944年までに太平洋で50回の任務をこなした。1953年に大西洋飛行を記した著書を出版し、翌年のピュリッツァー賞を受けた。1974年8月26日に没した。
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