伝記
T・S・エリオットは、1888年9月26日にアメリカのミズーリ州セントルイスで、富裕な実業家の家の第7子として生まれ、のちにイギリスで活動した詩人・文芸批評家である。エリオット家は17世紀にイギリスのサマセット州から移住してきた家系で、祖父が牧師として赴任して以来、教会の建設や大学創設への貢献で、セントルイスの名家として知られていた。父母とも詩才があり、彼は恵まれた文学的環境で育った。1904年、セントルイス万国博覧会で、フィリピン会場のイゴロット村に魅せられ、翌年に書いた短編は、その探訪の成果だった。
1906年にハーバード大学に入り、フランス文学や古代・近代哲学、比較文学などを学んだ。やがてアーサー・シモンズの『文学における象徴派の運動』に触れ、モダニズムへの傾倒を深めていった。1909年に大学院へ進み、サンタヤーナとアーヴィング・バビットの指導を受け、近代の進歩に懐疑的なバビットに共鳴したとされる。1910年に留学したパリでは、コレージュ・ド・フランスでベルクソンの講義を聴き、シャルル・モーラスの反古典主義にも強い影響を受けた。この頃に書かれた初期の代表作が「プルーフロックの恋歌」である。1911年末にハーバード大学に戻ってサンスクリットと古代インド哲学の研究に没頭し、1914年にドイツを経てイギリスへ渡った。オックスフォード大学で哲学者ブラッドリーに関する論文を書いたが、博士号は取得しなかった。
1915年、先輩の詩人エズラ・パウンドの誘いでイギリスに拠点を移し、オックスフォードで知り合ったヴィヴィアンと結婚した。父はこの結婚に強く反対し、一族の信仰だったユニテリアン派を捨てて聖公会に転向した息子への遺産の相続を拒否した。そのため彼は、一転して経済的な苦境にさらされ、妻が神経症をわずらって多額の治療費が必要になったこともあり、公開講座や雑誌への寄稿で家計を支えた。1917年にロイズ銀行に職を得て生活が安定すると、本格的な文学活動を始め、同年にパウンドの助力を得て第1詩集を刊行した。1920年の評論集『聖なる森』に収められた「伝統と個人の才能」などは、新批評の始動につながった。
1922年、季刊誌『クライテリオン』を創刊し、その創刊号に長詩「荒地」を発表した。この詩は、1920年頃から書き継がれ、病気療養中のスイスで完成させたのち、パリでパウンドの批評を得て仕上げられた。都市のイメージやジャズのリズムを響かせた詩句は、第一次世界大戦後の新しい感受性のあらわれとして、学生や詩人の間で熱狂的に読まれた。1925年に銀行を退職して出版社で編集者として働き始め、1927年にイギリス国教会で洗礼を受け、イギリスの市民権を取得した。翌年には、文学では古典主義、政治では王党派、宗教ではアングロ・カトリックという自らの立場を宣言している。1930年の『灰の水曜日』は、宗教詩の気配をつよくまとう作品となった。
1935年に詩劇『大聖堂の殺人』を発表し、第二次世界大戦中には『四つの四重奏』を書いた。1939年の猫の詩集は、没後にミュージカル『キャッツ』の原作となった。1948年、英国王からメリット勲位を授けられ、ノーベル文学賞も受賞した。1957年に、秘書だったヴァレリーと結婚した。1965年1月4日に76歳で亡くなり、遺骨は祖先の村、サマセット州イースト・コーカーの教会に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- ブランチ・リッキー (1965年没)
- リンダ・ダーネル (1965年没)
- 三船久蔵 (1965年没)
- エリック・アブラハムソン (1965年没)
- パウル・ヘルマン・ミュラー (1965年没)
同じ地域に関係する人物
- デニス・サッチャー (2003年没)
- アンソニー・シェーファー (2001年没)
- オルタンス・マンチーニ (1699年没)
- ジョン・エヴァレット・ミレー (1896年没)
- サミュエル・フレデリック・グレイ (1828年没)