HISTORICAL PERSON · 1965年没

ドロシア・ラング

大恐慌時代の作品で知られる報道写真家で、ドキュメント写真の発展に大きな影響を与えた。幼くして患ったポリオで右足が不自由になったが、それを自分の個性と考えた。

生涯
1965年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / サンフランシスコ)
出生地
アメリカ合衆国(ホーボーケン)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

ドロシア・ラングは、1895年5月26日にニュージャージー州ホーボーケンで、ドロシア・ナッツホルンとして生まれたアメリカの写真家・報道写真家である。大恐慌時代の作品で知られ、ドキュメント写真の発展に大きな影響を与えた。ドイツ系移民の二世で、父ハインリヒ・マーティンは弁護士、母ヨハンナ・キャロラインは地元の演奏会に出るソプラノ歌手だった。ホーボーケンは大西洋を渡る客船の港で、近所にもドイツ系の住民が多かった。1902年にポリオにかかり、当時はまだ治療法が発見されておらず、衰弱して右足の機能を失った。治療はしたものの生涯足を引きずることになったが、この障害こそが自分の個性を形作る重要なものだと考えるようになったという。同級生たちにからかわれて傷つくこともあったが、この経験は、弱い立場の人々や社会の外側にいる人々への共感を育てたとされる。

1907年、父が理由を告げないまま突然家を出ていき、彼女は生涯そのことを語れなかった。母は図書館員としてニューヨーク公立図書館の分館で働き、娘は毎日母と渡し船で通い、授業が終わると図書館で手当たり次第に本を読んだ。母の家系の姓を名乗るようになったのもこのころで、ナッツホルンの名を捨ててラングと称した。ニューヨークで写真を学びながら、写真スタジオで見習いとして働き、1918年にサンフランシスコへ移って肖像写真のスタジオを開いた。画家のメイナード・ディクソンと結婚し、1925年にダニエル、1928年にジョンを産んだ。その後、世界恐慌が深まるにつれて屋外での撮影を始めた。失業やホームレスの問題を調べるうち、地元の写真家の注目を集め、農業安定局(FSA)のプロジェクトに参加することになった。

1935年にメイナードと離婚し、農業経済学者でカリフォルニア大学バークレー校の教授ポール・シュスター・テイラーと再婚した。ポールが聞き込みと経済統計を受け持ち、ドロシアが写真を撮るかたちで、5年間、地方の貧困や小作制度による搾取、出稼ぎ労働者について調べた。1935年から1939年にかけての活動は、小作人や農家、出稼ぎ労働者の苦境を世間に知らせ、身を切るような彼女の写真は、この時代を象徴するものとなった。1960年に彼女は、とくに有名な「移民の母」の写真について、飢えて絶望的な母親にまるで磁石のように引き寄せられたと語り、母親が32歳だと教えてくれたことや、凍った野菜と子どもたちの捕まえる鳥で暮らしていること、食べ物を買うため車のタイヤを売ってきたばかりだということも述べている。写っていた女性がチェロキーのフローレンス・オーウェン・トンプソンだったことは、1970年代後半になって判明した。

1941年には素晴らしい写真が評価されてグッゲンハイム奨学金を得たが、真珠湾攻撃のあと、日系アメリカ人の強制収容を記録するために辞退した。強制収容所へ移される人々を取材した写真は明らかに批判的であったため、軍に没収された。約800枚の没収された写真は、現在アメリカ議会図書館で閲覧できる。1952年には写真雑誌の創刊者の一人となった。晩年の20年は健康が優れず、潰瘍やポリオの後遺症に苦しんだ。1965年10月11日、70歳で他界した。

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