伝記
アーサー・イーヴリン・セントジョン・ウォーは、1903年10月28日、ロンドン北部のウェスト・ハムステッドで、出版社の経営者で文芸評論家のアーサー・ウォーと、キャサリン・シャーロット・レイバンの次男として生まれたイギリスの小説家である。兄のアレックも名の知られた小説家となった。出生時、家では医師の到着が間に合わなかったと母は記している。1904年1月7日に洗礼を受けたが、家族にも世間にもイーヴリンの名で通った。ランシング・カレッジなどを経て1922年にオックスフォード大学のハートフォード・カレッジに入ったものの、勉学に身を入れず放蕩生活を送り、二年後に退学した。美術学校に入りなおしたが、これも短期間でやめ、しばらく教師をしながら各地を放浪した。
1928年に、同じ名のイーヴリンという女性と結婚した(この名は男女双方に用いられる)。この年にダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの評伝を書き上げ、最初の長編小説『衰亡記』を執筆して、二冊をほぼ同時に刊行し、文壇にデビューした。『衰亡記』は大学を放校された青年がパブリックスクールの教師をつとめるユーモア小説で、以後『黒いいたずら』(1932年)や『一握の塵』(1934年)など、ときにグロテスクになるほどシニカルな風刺をこめた作品を発表した。1930年代には新聞の特派員としてしばしば旅に出て、1935年のイタリアのエチオピア侵攻のときにはアビシニアから記事を送った。若い頃から貴族的な友人が多く、田舎の邸宅の社交界を好んだという。
1930年、最初の結婚が妻の不倫がもとで破綻し、これを機にカトリックに改宗した。1938年に再婚している。第二次世界大戦では英軍に従い、ユーゴスラビアへも赴任した。入営が報じられた際、名前のアーサーが略されていたので女性と勘違いされ、部隊の将兵が全員髭を剃り、花束を持って兵舎の入り口まで迎えに飛び出したという逸話がある。大戦の末期、前線でパラシュートの降下中に負傷して長期の休暇を与えられ、それを利用して長編『ブライズヘッド再訪』を執筆した。語り手のライダーと、カトリックの旧家の次男セバスチャンとの友情、その妹ジュリアとの恋愛、セバスチャンの宗教をめぐる葛藤と落魄を、絢爛な貴族文化を背景に美しく描き、それまでの作風を転換させた。従来のウォー作品に慣れた読者を失望させる一方で、それ以上の熱烈な愛読者を生み、貴族的伝統のないアメリカで爆発的な人気を博した。
1950年代初頭からは、従軍経験をもとに『戦士』(1952年)、『士官と紳士』(1955年)、『無条件降伏』(1961年)の三部作『名誉の剣』を発表した。1950年代初めに精神の変調に陥った経験も、のちに小説に仕立てている。伝統を重んじる立場から教会の改革に強く反対しており、1962年から65年の第二バチカン公会議で、各国語によるミサが導入されたことは深く彼を動揺させた。戦後の福祉国家の風潮への嫌悪や健康の衰えもあって晩年は暗い影を帯びたが、無関心を装う仮面の下で、友人と見なした人々には大きな親切を示したという。1966年4月10日、サマセットで死去した。六十二歳だった。死後、1981年のテレビドラマ『華麗なる貴族』などの映像化を通じて新たな読者を得た。
同じ年に亡くなった人物
- カミロ・トーレス・レストレポ (1966年没)
- ロベール・シャルパンティエ (1966年没)
- ジュゼッペ・ファリーナ (1966年没)
- クルト・バッケベルク (1966年没)
- ボリス・ポドリスキー (1966年没)
同じ地域に関係する人物
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- エドレッド (955年没)
- Bill Hoskyns (2013年没)
- ハリー・パッチ (2009年没)
- レジナルド・パネット (1967年没)