HISTORICAL PERSON · 1966年没

ヴァンサン・オリオール

パン職人の息子から弁護士、政治家となり、第16代フランス大統領を1947年から1954年まで務めた。財務大臣や法務大臣も歴任した。

生涯
1966年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(ルベル)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ジュール=ヴァンサン・オリオールは、1884年8月27日、フランス南西部オート=ガロンヌ県のルヴェルに、パン職人ジャック・アントワーヌ・オリオールと妻アンジェリク・ヴィルジニー・デュランの一人息子として生まれた。十歳のとき、子供用の火薬ピストルの引き金の調整を誤って左目を傷め、以後生涯、義眼を着けた。トゥールーズ大学で1905年に法学士の学位を、また哲学の学位も得て、そこでジャン・ジョレスの講義を聴いた。のちに女性として初めて重罪院で弁論に立つ弁護士となるマルグリット・ディルアンとも出会い、その友情は生涯続いた。

1904年にトゥールーズで弁護士を開業した。一時は自由至上主義の青年組織に入っていたが、ジョレスの演説を聴いて社会主義者となり、フランス労働者インターナショナル支部の結成から活動した。1908年にはアルベール・ベドゥースと、日刊紙『ル・ミディ・ソシアリスト』を創刊し、このとき、トゥールーズのジャーナリスト協会の会長にもなっていた。1912年6月にミシェル・オクチュリエと結婚し、1918年に長男ポールが生まれた。1914年5月に国民議会議員に当選し、以後1940年6月まで議員を務めた。1925年にはミュレ市長に選ばれて、1947年1月まで務めた。1924年から1926年には、左翼連合の下で下院の財務委員長を務めた。

1936年6月、レオン・ブルムを首班とする人民戦線内閣に財務大臣として初入閣した。ドルに対してフランを30パーセント切り下げたが、かえって経済不安は増した。ブルムは切り下げと産業統制を主張したが、1937年6月に急進社会党のカミーユ・ショータンと首相を交代する。オリオールはショータン内閣で法相を務め、1938年3月にはブルムの第二次人民戦線内閣で調整相を短期間務めたが、同年4月のダラディエ内閣の成立とともに閣僚を辞任した。ミュンヘン協定には反対だったが、票は賛成に投じたとされる。

第二次世界大戦でフランスがドイツに敗れると、1940年7月10日にヴィシーで開かれた国民議会は、ペタン元帥に全権を付与した。オリオールは、これに反対票を投じた八十人の議員の一人で、一年余り軟禁された。1942年10月に脱出に成功してレジスタンスに加わり、1943年10月にロンドンへ亡命して、ド・ゴール率いる自由フランスに参加した。1944年7月には、ブレトン・ウッズの国際連合通貨金融会議にフランス代表として出席している。

1945年11月、ド・ゴールを首班とする臨時政府に国務大臣として入閣した。第四共和政の発足にあたっては憲法制定議会の議長に選ばれ、ド・ゴール派と共産党の間で「第三勢力」の結集に動いた。国際連合が発足すると、フランスの初代国連代表となった。1947年1月16日、ド・ゴール派の人民共和運動の候補を452票対242票で破り、大統領に選出された。第四共和政の大統領の権限は縮小されていたが、友好国との関係を深めようと努めた。一方、国内では経済と政治の混乱、インドシナ戦争の責任を問われた。1947年には食糧暴動が各地で起き、共産党系の労組もストライキに入ったが、12月に収拾された。植民地帝国は在任中に縮小の一途をたどり、1953年の演説で、風前の灯の国家の惨めな長だと感じていると語った。1954年1月に任期を終え、後任はルネ・コティだった。退任後は長老として政治評論を書き、第五共和政では憲法評議会の議員となり、1965年の大統領選ではミッテランを支持した。1966年1月1日、パリで死去した。

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