HISTORICAL PERSON · 1966年没

ジョルジュ・デュアメル

フランスの医師、作家、詩人。代表作に『パスキエ家の記録』があり、1918年にゴンクール賞を受けた。アカデミー・フランセーズ会員でもある。

生涯
1966年没
死亡地
フランス共和国(ヴァル=ドワーズ県 / ヴァルモンドワ)
出生地
フランス共和国(パリ)
出典
世界地図
フランス共和国(ヴァル=ドワーズ県)

伝記

ジョルジュ・デュアメルは、1884年6月30日にパリ13区で生まれた、フランスの医師、作家、詩人である。4人きょうだいの3番目で、父ピエール=エミールは薬剤師、母マリー・エンマも薬草商で、暮らしは質素だった。父は40歳を過ぎてから医学の勉強を始めたという移り気な人物で、幼少期の一家はパリ市内で十回以上、のちにはル・アーヴルやヌヴェールなどへ転居を繰り返した。デュアメルは12歳のころから詩を作り、1900年には小説も書いた。1902年に大学入学資格試験に通り、科学の学位を得たのち、医学に進んだ。

1902年ごろ、シャルル・ヴィルドラックやルネ・アルコスらの若手作家と知り合った。ヴィルドラックはのちに姉の夫となる人物である。1906年秋から14か月間、彼らや詩人、画家、音楽家、印刷工らとパリ南東クレテイユの古い家に籠もり、出版で自活しようとする理想主義的な共同生活を営んだ。「クレテイユの僧院」と呼ばれ、ジュール・ロマンも参加した。この体験は、のちに連作小説『パスキエ家の記録』の第5巻で、小説の形で語られている。1907年には詩集『伝説、戦闘』を出版した。1909年に医学博士となり、製薬の研究所に勤めるかたわら、文芸雑誌『メルキュール・ド・フランス』の詩歌批評欄を担当した。同じ年、僧院での演劇の上演で出会った女優ブランシュ・アルバーヌと結婚し、のちに3人の息子をもうけた。その1人が作曲家のアントワーヌ・デュアメルである。

1914年に第一次世界大戦が始まると、視力のために一度は兵役を免れていたが、志願して野戦外科医となった。約4年間、前線に近い場所で、ヴェルダンの戦いなどを経験し、数千件の手当をした。その体験を、1917年の『殉難者の記録』と1918年の『文明』にまとめた。『文明』は戦争の惨禍を告発する作品で、利益のために戦争を使っていると思われたくないとして、別名義で刊行され、ゴンクール賞を受けた。戦後は、機械文明や画一主義よりも、人間の心に基づくユマニスムの寛容を尊ぶべきだと訴える文筆活動を続けた。1920年から1932年にかけて連作小説『サラヴァンの生涯と冒険』を、1933年から1945年にかけて10巻の『パスキエ家の記録』を書いた。1927年にソヴィエトを、1929年にアメリカを旅し、その見聞を『モスクワの旅』と『未来生活情景』にまとめ、前者の画一主義と後者の機械文明を批判している。

1935年に『メルキュール・ド・フランス』の主筆となり、同年アカデミー・フランセーズの会員に選ばれた。1937年から1940年にはアリアンス・フランセーズの会長を務めた。ナチス占領期の1941年、ルイ・アラゴンらから、共産党の対独レジスタンス・グループの一派として作られた作家組織への入会を求められたが、応じなかった。1942年には、ドイツ占領軍により全著作の発売を禁じられた。パリ解放後の1944年にようやく全国作家委員会に入ったが、対独協力作家のブラックリストの掲載などの過度な粛清に反対して、1946年に脱会した。1944年から1946年までアカデミー・フランセーズの常任書記長を務めた。1952年には読売新聞の招待で来日している。1960年に健康を損ね、1966年4月13日、ヴァル=ドワーズ県の別荘で81年余の生涯を閉じた。

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