伝記
ガイウス・ケスティウス・ガッルスは、ローマ帝国の元老院議員で将軍である。紀元35年の正規執政官を務めた同名の父の子として生まれた。紀元42年には補充執政官となり、その年の後半の任期をガイウス・カエキナ・ラルグスとともに務めた。
のちにシリア総督となり、63年から65年にかけてその任にあったとされる。第一次ユダヤ戦争が始まった66年9月、秩序を回復する目的でユダヤへ進軍した。アンティオキアに集結した軍は第12軍団フルミナタ、シリアに駐屯する他の3個軍団からの分遣隊、補助歩兵6個大隊、騎兵4個翼からなり、これにアグリッパ2世などの従属王が出した同盟軍1万4千が加わって、総勢3万を超えた。
ガッルスはガリラヤやユダヤの海岸部を押さえるために部隊を割いたため、兵力が減った状態で内陸に転じ、エルサレムの制圧を目指した。輜重隊や後衛に損害を受けながらもスコプス山に達し、外側の市街に入り込んだが、神殿の丘を落とすことはできなかった。9日間の包囲ののち、海岸へ退くことを決めた。攻城兵器を待ち伏せで失ったことと、10月の雨が降り始めるなかで補給線を断たれるおそれがあったことが、その判断の理由と見られている。ベト・ホロンを経由して退く途中、エルサレムの強硬派、すなわちシモン・バル・ギオラらの勢力が追撃し、ローマ軍はアンティパトリスまで追われた。この退却で、ローマ軍は軍団の鷲旗も失ったとされる。
ヨセフスは当初、ローマ側の損害を515人と見積もっていたが、その後の敗走で歩兵5,300人と騎兵380人が死んだという。この事件はネロ帝の治世12年のヘシュワンの月に起こり、ローマとの戦争の始まりを画した。ユダヤはこのころ、ローマの統制を完全に離れていた。
シリアに戻って間もなく、67年の春より前にガッルスは世を去った。ヨセフスによれば、思いがけない大敗の恥に打ちのめされての死だったという。後任のシリア総督にはリキニウス・ムキアヌスが就き、ネロは、のちに皇帝となるウェスパシアヌスを、属州に集められたローマ軍の指揮官に任じて反乱の鎮圧に当たらせた。
同じ年に亡くなった人物
- ゾスカレス (101年(推定))
- クィントゥス・ソシウス・セネキオ (101年(推定))
- シリウス・イタリクス (101年没)
同じ地域に関係する人物
- アンティオコス13世 (紀元前64年没)
- ルアイ・アル=アターシー (2003年没)
- プトレマイオス6世 (紀元前145年没)
- スティーヴン・ソトロフ (2014年没)
- Remi Ochlik (2012年没)