伝記
アンティオコス13世は、セレウコス朝シリアの王で、アジアティコス(アジア人)と呼ばれる。在位は紀元前69年から紀元前64年で、セレウコス朝の最後から2番目の王にあたる。父はアンティオコス10世エウセベス、母はプトレマイオス家出身のクレオパトラ・セレネ1世である。生年は不詳だが、紀元前95年から90年の間に生まれた長男とみられる。
父は紀元前92年から83年ごろ、パルティアとの戦いで死んだともされ、紀元前92年から88年の間に死んだともいわれる。そのとき息子は幼く、母セレネが摂政として実権を握った。アルメニア王ティグラネス2世が紀元前83年(紀元前74年とも)にシリアを征服したのち、母は弟とともに彼を連れてローマに赴いた。紀元前79年とも紀元前75年ともいわれるこの使節は、エジプト王位を認めさせるためだったが、失敗した。しかし「王国を支配する者」「シリアの王」としては認められ、紀元前73年にシリアへ戻ったとされる。キケロもこの使節に言及している。帰路、シチリアのシュラクサイで、法務官ウェッレスから宝石をはめた立派な青銅の燭台を奪われたという。その後の行動はわからず、キリキアに避難して情勢を待っていたため「アジア人」と呼ばれたのかもしれないといい、のちにポンペイウスは彼の無為を非難した。
紀元前69年、母セレネはティグラネスに捕らえられて殺された。同じ年、ローマのルキウス・リキニウス・ルクルスがティグラノケルタの戦いでティグラネスを破ると、アンティオコスはアンティオキアの住民の支持を得てシリアの王位につき、ルクルスもこれを認めた。ルクルスには、ティグラネスが併合していたセレウコス王国を再建して、その力を弱める意図があったという。
しかしその政権は弱体で、支配権をめぐる争いが続いた。争った相手は親族のフィリッポス2世フィロロマイオスで、アンティオキアの住民と、キリキアの首長の支援を受けた。紀元前67年から66年にかけて、二人のどちらかが相手を都市から追い出し、追われた側がエメサのアラブ人の首長サンプシケラモス1世に捕らえられたとされる。アンティオコスは、紀元前65年ごろに復位させられた。紀元前64年、ポンペイウスがアンティオキアに到着してアンティオコスを廃位した。ポンペイウスは、彼がローマ人に何もしていなかったにもかかわらず、ティグラネスに追われたセレウコス家ではなく、ティグラネスを破ったローマ人がシリアを治めるべきだと主張したという。アンティオコスはサンプシケラモスのもとに逃れたが、サンプシケラモスはポンペイウスの歓心を得るために彼を殺害した。
この死をもってセレウコス朝は滅亡したとされてきた。しかしフィリッポス2世はその後も生存が確認され、兄弟のセレウコス7世フィロメトルは、エジプトのベレニケ4世と短期間結婚した人物と同一とすれば紀元前58年まで生きたことになる。いずれにせよ、アンティオコスとフィリッポスの廃位以降、シリアはローマの属州となり、総督が派遣されるようになった。
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