HISTORICAL PERSON · 110年代没

ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス

帝政ローマの文人・政治家。叔父の大プリニウスの養子となった。トラヤヌス帝への『頌詞』と全10巻の『書簡集』で知られ、書簡はヴェスヴィオ噴火やキリスト教徒の処遇を伝える貴重な史料である。

生涯
110年代没
死亡地
古代ローマ(カスタモヌ県 / ポントゥス・ビテュニア)
出生地
イタリア共和国(コモ)
出典
世界地図
古代ローマ(カスタモヌ県)

伝記

ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥスは、帝政ローマの文人・政治家で、叔父の大プリニウスと区別して小プリニウスと呼ばれる。生年は61年か62年ごろ、没年は113年ごろとされる。生まれは北イタリアのコムム、現在のコモ市で、ガリア・キサルピナに属する土地だった。この地の人々は、前49年にカエサルの決定でローマ市民権を得た、イタリアで最後の住民であった。

父は騎士身分のルキウス・カエキリウスである。母はプリニウス氏の出身で、その家もまた騎士身分であり、一家はコモ湖周辺にいくつもの所領を持つ裕福な家であった。姉妹が一人いたが、79年より前に若くして亡くなったらしい。父が早く亡くなると、母の兄弟である博物学者・政治家・軍人のガイウス・プリニウス・セクンドゥスの養子となり、そのためプリニウスの名で知られるようになった。ローマでは叔父が後見役を務めた。叔父は若くしてローマへ出て名家と交わり、ストア哲学を学び、あるギリシア人医者の植物園に通って自然史への関心を育てた人物で、皇帝ウェスパシアヌスの側近も務め、77年には西地中海艦隊の司令官となった。79年のヴェスヴィオ火山の噴火の際には、艦隊のいるミセヌムに滞在していて、プリニウスも母とともにそこにいた。プリニウスは初めコモで育ち、のちにローマで学び、師の中には名高い修辞学教師クィンティリアヌスがいた。

その後は法廷弁護士、また政治家として歩み、ティトゥスからトラヤヌスの時代にかけて仕え、トラヤヌスとは親しかった。100年に補充執政官となり、元老院議員として、トラヤヌスに捧げた賞賛の演説『頌詞』を残している。のちにビテュニア・ポントゥス属州の総督に任命されて赴任した。赴任の時期は、109年秋ともいわれ、111年から113年の間ともいわれて、はっきりしない。結婚は二度、または三度で、確実なのは、96年より前に亡くなったウェヌレイアと、103年ごろに結婚したカルプルニアである。カルプルニアは107年ごろに流産したとされ、プリニウスには子がいなかった。

主著は全10巻の『書簡集』で、103年ごろから出版された。96年末ごろからの手紙を収め、当時のローマ社会を知るうえできわめて重要な史料となっている。第1巻から第9巻には友人や知人あての247通の私信、第10巻には皇帝トラヤヌスと交わした公的書簡121通が入っている。このうち後半の107通は属州総督としての手紙とトラヤヌスの答書であり、112年ごろの書簡と皇帝の指示は、皇帝礼拝を拒否してイエス・キリストを崇拝するキリスト教徒への処遇を知る貴重な史料である。歴史家タキトゥスとは友人であり、その求めに応じて叔父の死んだ日の様子を語った書簡も含まれ、火山噴火の様子を伝えている。詩人マルティアリスの死を惜しむ手紙も知られている。プリニウス自身も、コモのほか、ローマ近郊のラウレンティヌムやウンブリアに別荘や所領を持ったとされ、資産家としても知られ、2億セステルティウスの資産があったと考えられている。研究者ダンカン・ジョーンズの研究では、資産者の一覧の21位に数えられている。小惑星の一つ、3226番のプリニウスは、彼の名にちなんで命名された。

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