HISTORICAL PERSON · 110年代没

班昭

後漢の著作家で、中国初の女性歴史家。兄の班固が未完で没した『漢書』の八表と天文志を書き継いで完成させた。和帝に召されて后妃の師範となり、曹大家と敬称された。辞賦『東征賦』も知られる。

生涯
110年代没
死亡地
中華帝国(陝西省 / 漢)
出生地
後漢
出典
世界地図
中華帝国(陝西省)

伝記

班昭は、後漢の著作家であり、中国で最初の女性歴史家とされる人物である。和帝の時代に宮廷に仕えた女官でもあった。建武21年(45年)の生まれとされ、49年生まれとする説もある。没年は安帝の時代、元初年間(114年から119年)のうちとされ、元初4年(117年)とも、117年から120年ごろともいわれ、享年は70余という。一名は姫、字は恵姫、または恵班といい、のちに曹大家と敬称された。

右扶風安陵県の人で、歴史家の班彪(3年から54年)の娘として生まれた。同じく歴史家の班固(32年から92年)と、西域で活躍した武将の班超(32年から102年)は兄にあたり、班超の三男は甥にあたる。女官で詩人の班婕妤の姪孫にもあたるとされる。14歳で同郷の曹世叔に嫁いだが、夫は早くに亡くなった。再婚せず、学問に生涯を捧げたと伝えられる。その才名を聞いた和帝は彼女を宮中に召し出し、後宮の后妃たちの師範とした。人々は敬意をこめて彼女を曹大家と呼んだ。

兄の班固は、前漢の歴史をまとめた『漢書』を未完のまま、永元4年(92年)に亡くなった。班固は竇太后の一族との関係から投獄されて死んだとされる。班昭は兄の仕事を引き継ぎ、八表や天文志の稿を書き継いで完成させた。八表の欠けた部分を補い、皇帝の母の系譜も加えて、通常は記録されない多くの情報を残したという。のちに馬続が天文に関する部分を加え、『漢書』は完全な書物になったともされる。班昭にはほかに、女性の心得を説いた『女誡』7章がある。これは班家の娘たちに宛てて書かれたものだが、すぐに宮廷で回覧され、その後長く中国で女性の行いの手引きとして読まれた。天文や数学にも深い関心を寄せ、詩や記念の文、論、注釈、随筆など多くの作品を書いたが、すべては残っていない。『続列女伝』2巻も、彼女が選定したものと伝えられる。『女誡』の評価は現代では分かれている。儒教的なフェミニズムの基礎となる文献だとする解釈がある。清代には、班昭を女性が教育を受ける手本として称える人々もいた。一方で、この書は女性の主な務めを夫や父への服従とし、女性の知性や才能を重んじないため、フェミニズムの文脈で捉えるのは誤りだとする批判もある。

班昭は宮廷で、鄧綏(のちの和熹皇后)をはじめとする人々に、王室の図書館で教えた。后妃たちは彼女に「才人」の称号を贈り、皇后は彼女を女官に任じた。和帝の死後、鄧皇后が幼い殤帝のもとで政治を代行すると、しばしば班昭に助言を求めたという。皇后は感謝して、班昭の二人の息子を官吏に任じた。班昭は宮廷の図書館員としても、助手たちの編集作業を監督し、ほかの学者を育てた。その立場で、劉向の『列女伝』を並べ替え、増補したとされる。竹簡や絹に書かれた写本を、発明されたばかりの紙に写す作業を監督した可能性もあるという。

辞賦にも長じ、父の班彪の『北征賦』に対して『東征賦』を作った。これは『文選』に収められ、漢代の女流作家の第一人者に数えられる。113年には、息子の曹成が陳留郡の官に任じられ、班昭も同行して、その旅を『東征賦』に記した。この作品は現存する。没後には、息子の嫁の丁氏が作品を集めて『班昭集』三巻をまとめたが、大半は失われた。『後漢書』の列女伝に伝があり、『女誡』もその中に収められている。また「東征賦」は日本語訳も出されている。金星のクレーターの一つにも彼女の名が付けられている。

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