伝記
コンラート・アデナウアーは、1876年1月5日にケルンで、5人兄妹の三男として生まれたドイツの政治家である。西ドイツの初代連邦首相を1949年から1963年まで務め、1951年から1955年には外相を兼ねた。戦前はドイツ中央党に属し、戦後はキリスト教民主同盟の初代党首となった。欧州連合の父としても知られる。父は小学校卒業後にプロイセン陸軍に入り、普墺戦争で重傷を負いながらも中尉まで昇進し、退役後は裁判所の書記となった人物で、敬虔なカトリック教徒だった。下級役人だったため家計は苦しく、一家は3階建ての借家の一部を転貸し、アデナウアーは17歳まで兄と一つのベッドで寝ていた。
1885年にカトリック系のギムナジウムに入り、常に6番以内の成績を保って、1894年に卒業した。しかし、すでに兄二人が大学へ進んでおり、進学させる余裕は家になかったため、ケルン市内の銀行に就職したが、のちに「いやな職業につくということがどんなものか、身に染みてわかった」と述べている。見かねた父が奨学金を申請し、それを得て、わずか2週間で銀行を辞め、フライブルク大学の法学部に入学した。のちにミュンヘン大学を経てボン大学で学び、質素倹約に努め、飲酒も喫煙もしなかった。1897年に第一次国家試験に、1901年に第二次国家試験に合格したが、成績は芳しくなく、希望した弁護士にはなれず、検察庁に勤めたものの、2年ほどで辞めた。その後、弁護士事務所に就職し、事務所長の推薦を得て、1906年3月にケルン市の助役に選任された。その3日後に父が亡くなっている。1904年にエマと結婚して3人の子をもうけたが、妻は長男の難産以来、健康がすぐれず、1916年に亡くなった。
1909年に副市長となり、第一次世界大戦が勃発すると、戦争の長期化を予想して食糧問題を担当した。市周辺の農家と契約を結び、見返りに肥料を供給するなどして、市の食糧を比較的充実させた。1917年9月に市議会で市長に選ばれ、11月に就任した。1918年11月に水兵の反乱がおき、市の権力を労兵レーテが握ると、粘り強く交渉して、市内の秩序を回復させた。戦後は、ラインラントをドイツから分離せず、ドイツ国内の一つの州にする構想を打ち出した。1919年に隣家の娘アウグステと再婚し、4人の子供に恵まれた。市長としては強引な手法で多くの公共工事を行い、城壁の跡地の緑地化や高速道路、港や空港の建設、ケルン大学の再建などを進めた。そのため、ドイツで一番金を使う市長だと揶揄された。国家評議会にも所属し、1921年と1926年に首相就任を打診されたが、いずれも辞退した。
1933年にヒトラーが首相になると、ケルンを訪れたヒトラーを出迎えず、橋に掲げられた鉤十字の旗の撤去を命じて、ナチ党の反感を買った。3月の選挙でナチ党が勝利したのち、4月4日に市長を罷免され、年金の受給資格を失い、銀行口座も凍結された。暗殺や逮捕を警戒して修道院に身を寄せたこともあり、1934年の長いナイフの夜には逮捕されたが、数日後に釈放された。後には年金の一部が回復され、家族とともに隠棲して、バラづくりや発明に勤しんだ。1943年にはヒトラー暗殺計画への参加を打診されたが、断った。戦後に政界へ戻ると、西ドイツの初代首相となり、1967年4月19日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- 吉田茂 (1967年没)
- マヌエル・プラド・イ・ウガルテチェ (1967年没)
- トト (俳優) (1967年没)
- ジョージ・ケリー (1967年没)
- フェリックス・ユスポフ (1967年没)
同じ地域に関係する人物
- アルベルト・レンガー=パッチュ (1966年没)
- カイ=ウヴェ・フォン・ハッセル (1997年没)
- フランツ・ブリュッヒャー (1959年没)
- ヘルガ・アーレント (2013年没)
- オスヴァルト・アッヒェンバッハ (1905年没)