伝記
吉田茂は、1878年(明治11年)9月22日、東京の神田駿河台に生まれた。実父は土佐出身の自由民権運動の闘士で、板垣退助の腹心だった竹内綱である。茂はその五男で、父が反政府の陰謀に加わった科で逮捕されてまもないころの誕生であった。実母の身元は今もはっきりしない。1881年に、旧福井藩士で横浜の貿易商だった吉田健三の養子となり、養父が40歳で亡くなると、11歳で莫大な遺産を相続した。少年期は大磯で養母に厳しく育てられた。耕余義塾を卒業したのち、日本中学や高等商業学校、正則尋常中学校、東京物理学校など、10年余りにわたって学校を渡り歩いた。商人は性に合わないと悟って高等商業学校はまもなく退校し、1901年に学習院高等学科を卒業した。外交官を志すようになり、1906年7月に東京帝国大学を卒業して外交官試験に合格し、外務省に入った。同期には首席で合格した広田弘毅らがいた。
外交官としては、入省後の20年の多くを中国大陸で過ごし、済南の領事を務めていた1918年には、岳父の牧野伸顕とともにパリ講和会議に出席した。満州の合法的な権益を守ることには強硬な意見で、のちに奉天総領事として東方会議に参加し、1928年には田中義一内閣の外務次官となった。1931年から駐イタリア大使を務め、英米との関係を重視し、ドイツとの接近を警戒したため、枢軸派からは「親英米派」と見られた。1936年には駐イギリス大使となり、日独伊三国同盟には強硬に反対した。1939年に待命大使となって外交の一線から退き、太平洋戦争の前にはグルー米大使や東郷茂徳外相らと会って開戦を阻もうとしたが、実現しなかった。開戦後は牧野や近衛文麿ら重臣の連絡役として和平工作に従事した。1945年2月、近衛上奏に協力したことが発覚して憲兵隊に拘束されたが、40日あまりで不起訴となり釈放された。この投獄は、戦後に「反軍部」としてGHQの信用を得る一因になったといわれる。
終戦後の1945年9月に東久邇宮内閣の外務大臣に就任し、続く幣原内閣でも外務大臣を務めた。1946年5月、日本自由党総裁鳩山一郎が公職追放になったため、その後任を受諾し、内閣総理大臣に就任した。1947年の総選挙では、実父と実兄の選挙区だった高知県から立候補して、トップ当選を果たしたが、与党は社会党に第一党を奪われ、翌月総辞職した。のちに民主自由党の総裁となり、第2次、第3次の吉田内閣を組織した。1951年9月8日、サンフランシスコ平和条約を締結し、同日に日米安全保障条約も結んだ。全面講和を唱える声も多いなか、政治生命を賭けて調印に臨み、帰国後の内閣支持率は戦後最高の58パーセントに達した。しかし、これが吉田の頂点だった。1953年2月の衆議院予算委員会で質問者に「バカヤロー」と発言したことが問題になり、反吉田の議員たちが内閣不信任案を可決させたため、吉田は衆議院の解散で対抗した。その後は鳩山グループとの抗争や度重なる汚職事件で支持は下がった。1954年7月には、吉田内閣のもとで保安隊が自衛隊に改組されたが、同年12月10日に首相を退いた。ふくよかな風貌と葉巻を好んだことから「和製チャーチル」とも呼ばれた。1967年(昭和42年)10月20日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- フィリス・ジョンソン (1967年没)
- リヒャルト・クーン (1967年没)
- レジナルド・デニー (1967年没)
- Josef Frank (1967年没)
- レジナルド・パネット (1967年没)
同じ地域に関係する人物
- プレーク・ピブーンソンクラーム (1964年没)
- 上村彦之丞 (1916年没)
- 北条時宗 (1284年没)
- 南次郎 (1955年没)
- 黛敏郎 (1997年没)