伝記
クレメント・アトリーは、1883年1月3日にロンドンで生まれた、イギリスの政治家、弁護士である。1945年7月26日から1951年10月26日まで、第62代の首相を務めた。のちに世襲貴族のアトリー伯爵に叙された。8人兄弟姉妹の7番目の子で、父ヘンリーは弁護士だった。父は熱心な自由党員でグラッドストンの支持者であり、アイルランドの自治に賛成し、第二次ボーア戦争には反対した。母エレンは保守的な家に生まれて保守党を支持し、両親は朝食時に子供たちに聖書を読ませるほどの熱心な国教徒だった。幼い頃のアトリーは病弱だったが、学校に通うようになるとクリケットに熱中した。
パブリックスクールを経てオックスフォード大学に進み、学生時代は保守党を支持していた。国教会については迷信とみなす不可知論者で、恥ずかしがり屋の性格のため、討論会でもあまり発言しなかった。父から会社重役並みの仕送りを受けており、生活に困ることはなかった。卒業後はリンカーン法曹院に入り、厳しい指導を受けて、1906年に法廷弁護士の資格を得た。しかし、法廷に立ったのはわずか4回だった。1905年に兄トムの勧めで、ロンドンのスラム街ステップニーにあるセトルメント施設のヘイリーベリークラブを訪れ、少年たちに読み書きやスポーツを教えるようになり、1907年からは専従の運営者となった。ここでの勤務を通じて、貧困層の実態を知った。兄弟は社会主義思想に傾倒し、フェビアン協会を訪ね、独立労働党に入党した。1908年に父が亡くなった後は、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの講師もして生計を立てた。
1914年に第一次世界大戦が始まると、31歳で適齢期を過ぎていたが、縁故を利用して入隊した。反戦を主張して投獄された兄トムとの間には、一時的な確執が生まれた。ガリポリの戦いに従軍したが赤痢にかかって戦線を離れ、続いてスエズ運河とペルシャ湾の石油利権を守る戦役にも加わり、友軍の放った砲弾で負傷した。1917年に少佐に昇進し、フランス戦線に配置されたが、1918年8月に敵の砲弾で倒れた材木が背中を直撃して、本国の病院に入院した。1919年1月に除隊して講師の職に復帰し、同年11月にステップニーの市長となって、診療所の設置や公衆衛生の整備などの社会改良政策を行った。1922年にバイオレット・ミラーと結婚した。同年の総選挙で庶民院議員に初当選し、富の再分配と生産手段の国有化を主張した。
労働党党首ラムゼイ・マクドナルドの目に留まり、議員秘書の一人に任命された。1924年の第一次マクドナルド内閣では、陸軍次官に就任した。のちに党首となった彼は、1945年の総選挙で労働党を結党以来初めての単独過半数に導き、首相に就いた。内政では、ベヴァリッジ報告書の構想に基づいて、充実した社会保障制度の創設や基幹産業の国有化を進め、福祉国家への道を歩み出した。外交では、インド、パキスタン、セイロン、ビルマの独立を承認した。首相在任中に東西冷戦が始まり、外相ベヴィンの主導で反共主義の立場を明確にし、イギリスは北大西洋条約機構の原加盟国の一つとなった。1967年10月8日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- アリス・B・トクラス (1967年没)
- ミシャ・オウア (1967年没)
- カール・シューリヒト (1967年没)
- 愛新覚羅溥儀 (1967年没)
- エットーレ・バスティアニーニ (1967年没)
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