伝記
イリヤ・エレンブルグは、1891年1月26日にロシア帝国時代のウクライナのキーウで、ユダヤ人技師の子として生まれたソ連の作家である。小説家、詩人、ジャーナリスト、翻訳家として知られる。家庭は宗教的ではなく、彼はユダヤ教にほとんど触れず、イディッシュ語も学ばなかったが、自らをロシア人、のちにはソ連の市民とみなし、国外にいた間もロシア語で書いた。4歳の時に一家はモスクワに移り、父が醸造所の所長に雇われた。学校では、2学年上のブハーリンと知り合い、友情はブハーリンが1938年に大粛清で処刑されるまで続いた。
1905年の革命の後、二人はボリシェヴィキの非合法活動に関わった。1906年に15歳で地下運動に参加して中学校から放校され、1908年には、17歳で秘密警察に逮捕されて5か月間拘束され、殴られて歯を失った。その後、国外へ出ることを許され、亡命先にパリを選んで、1909年にフランスに渡った。パリでは最初ボリシェヴィキの組織で働いてレーニンらと会ったが、まもなく党から離れた。モンパルナスの芸術家たちの暮らしに馴染み、詩を書き始め、ピカソ、リベラ、パスキン、モディリアーニら多くの芸術家と親しくなった。神秘主義や耽美主義の影響を受けたのも、この頃である。第一次世界大戦中はペテルブルクの新聞の従軍記者となり、機械化された戦争についての記事を連ねて書き、のちにそれは書物にまとめられた。
1917年の革命に際して帰国したが、当時の彼は、絶え間ない暴力の空気に衝撃を受け、ボリシェヴィキの政策に反対する傾向があった。冬宮の襲撃を凌辱にたとえた「ロシアのための祈り」という詩も書いている。各地を放浪し、演劇の仕事や文学の講義などをしたのち、1921年に芸術派遣員として国外に出て、作品を書いてソ連の出版物に掲載し始めた。1922年の『フリオ・フレニトの遍歴』や『13本のパイプ』などの前衛的な小説は、1920年代に人気を博した。1920年代までの作風はモダニズムの傾向が著しいが、五カ年計画が始まった1930年代には、国策である工業化を肯定的に扱う作品が主となる。ドイツ、フランス、スペインで人生最良の時を過ごした彼は、ソ連ではほとんど亡命者のように感じながらも、時代に順応して生き延びることに成功した。
第二次世界大戦にあたる大祖国戦争では、対独宣伝活動の一端を担い、赤軍に従軍した。彼の激しい文章は前線の兵士の間で大きな支持を得た一方で、反ドイツ的だとして論争も呼んだ。1941年の長編『パリ陥落』と、1947年の『嵐』は、スターリン賞を受けた。世界平和のために活動し、スターリン平和賞も受けている。スターリン批判後に書かれた『雪どけ』(1954年)で、スターリン時代の芸術家の悲劇を描き、のちのパステルナークやソルジェニーツィンと同様に、スターリン主義者たちの攻撃の的となった。『雪どけ』は、スターリン死後の自由化の時代の呼び名にもなった。1964年の『回想録』は、自己弁護の傾向を免れないとしても、20世紀ロシアの歴史に手がかりを与えた。1967年8月31日、前立腺と膀胱の癌のため死去し、墓石にはピカソによる彼の肖像画の複製が刻まれている。
同じ年に亡くなった人物
- フォルーグ・ファッロフザード (1967年没)
- ジナイーダ・セレブリャコワ (1967年没)
- ダヴィド・ブルリューク (1967年没)
- イヴリン・ネスビット (1967年没)
- ベイジル・ラスボーン (1967年没)
同じ地域に関係する人物
- Mikhail Golitsyn (1730年没)
- Lidiia Seifullina (1954年没)
- アゴスティニョ・ネト (1979年没)
- フョードル1世 (1598年没)
- ナタリア・ベスメルトノワ (2008年没)