伝記
スペンサー・トレイシーは、1900年4月5日、ウィスコンシン州ミルウォーキーで、自動車関係の仕事をする父と、アイルランド系の母のあいだに生まれた俳優である。愛称はスペンスといった。厳格なカトリックの家庭で育ち、兄のキャロルとともに侍者を務めた。父は息子のどちらかが司祭になることを望んだという。落ち着きのない手のかかる子どもで、9歳のときには、行いを改めさせるために修道女の保護下に置かれた。それでも映画に熱中し、同じ映画を何度も見て、見た場面を友人たちと再現した。のちの俳優パット・オブライエンとは幼なじみで、1917年に二人で年齢を偽って海軍に入ったが、戦場に出ることはなかった。
除隊後は医者を志し、ウィスコンシン州のリポン大学で学んだ。しかし大学の弁論部で熱弁をふるううちに演劇に興味を抱き、学生演劇に参加して、すっかり夢中になった。卒業後はオブライエンと共同生活をしながら、ニューヨークのアメリカ演劇アカデミーで学んだ。金は乏しく、米とプレッツェルの食事で過ごし、立派な背広を二人で共有したという。セールスマンや掃除人をして生活費を稼ぎ、1923年にブロードウェイの舞台『R.U.R.』のロボット役でデビューした。同年、エセル・バリモア主演の舞台にも出演し、主にブロードウェイで活躍した。また1923年に女優のルイーズ・トレッドウェルと結婚し、息子ジョンと娘ルイーズをもうけた。のちには別居したが、親しい友人としての付き合いは続いた。
1929年に死刑囚を演じた舞台の評判で映画界に呼ばれ、監督のジョン・フォードに見出されて、主役に抜擢された。フォックス社と契約したが、その顔立ちから悪役ばかりやらされた。1933年の『春なき二万年』のころから演技が認められ、その後の5年間で25本の映画に出て、1935年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤー社と契約した。1936年にフリッツ・ラング監督の『激怒』に出演し、1937年には『桑港』でアカデミー主演男優賞に初めてノミネートされた。そして同年にポルトガル人漁師を演じた『我は海の子』と、1938年に実在のフラナガン神父を演じた『少年の町』で、2年続けて同賞を受けた。この記録は、57年後にトム・ハンクスが受賞するまで唯一のものだった。
1941年に『女性No.1』でキャサリン・ヘプバーンと共演して以来、二人は交際するようになり、遺作となった『招かれざる客』まで9本で共演した。トレイシーはカトリックで、障害のある息子を育てたルイーズに生涯申し訳なさを感じており、離婚しなかったため、結婚には至らなかった。1950年の『花嫁の父』はヒットし、1958年にはほとんど一人芝居で演じた『老人と海』に、1961年にはナチ戦犯を裁く裁判長を演じた『ニュールンベルグ裁判』に出た。1963年以降は心臓を悪くした。1967年6月、『招かれざる客』の撮影が終わった17日後に、心臓発作で亡くなった。ヘプバーンは看取ったが、「ルイーズに申し訳ない」と葬儀へは出席しなかった。アカデミー賞のノミネートは9回に及ぶ。映画会社の首脳と衝突することも多い自信家で、クラーク・ゲーブルは、彼にかなう者はいないと語ったという。
同じ年に亡くなった人物
- Josef Frank (1967年没)
- ジョージ・ハッケンシュミット (1967年没)
- ボブ・アンダーソン (レーサー) (1967年没)
- ポール・ヘンケルス (1967年没)
- ルネ・マグリット (1967年没)
同じ地域に関係する人物
- ドナルド・グレーザー (2013年没)
- ディック・クラーク (2012年没)
- ブルーノ・カービー (2006年没)
- アーサー・ヒル (2006年没)
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