HISTORICAL PERSON · 1967年没

ロディオン・マリノフスキー

ソビエト連邦の軍人・政治家で、最終階級はソ連邦元帥。陸軍総司令官を務め、フルシチョフとブレジネフの時代には国防大臣となった。

生涯
1967年没
死亡地
ロシア連邦(モスクワ)
出生地
ウクライナ(オデーサ)
出典
世界地図
ロシア連邦(モスクワ)

伝記

ロディオン・ヤーコヴレヴィチ・マリノフスキーは、1898年11月23日にロシア帝国のオデッサ(現オデーサ)で生まれたソビエト連邦の軍人、政治家である。最終階級はソ連邦元帥で、陸軍総司令官のほか、フルシチョフとブレジネフの時代に国防大臣を務めた。ユダヤ系ウクライナ人の農民の家庭に生まれたとされる。一方で、父が家族を捨てたため庶出の子として登録され、再婚した母の貧しい夫に13歳で追い出されたともいわれる。12歳で学校をやめ、農場で働いたり、使い走りをしたりして暮らした。

1914年に第一次世界大戦が始まると、まだ若すぎて兵役に就けなかったが、軍用列車に潜り込み、将校たちを説得してロシア軍に志願し、少年兵として機関銃手となった。1915年10月にドイツ軍の攻撃を撃退した功で、聖ゲオルギー十字章を受け、上等兵に昇進した。のちに重傷を負い、数か月入院した。回復後の1916年には、ロシア・フランス派遣軍の一員としてフランスへ渡った。フランスの前線でも戦い、左腕に重傷を負って、フランス政府から叙勲された。1917年の十月革命に同調したため、フランス当局に逮捕された。1919年8月にロシアに戻ると赤軍に加わり、ロシア内戦が終わるまで、極東でコルチャーク軍と戦った。

1923年に歩兵大隊長となり、1926年にソビエト連邦共産党に入党した。1927年末から軍事アカデミーで学び、1930年に卒業して第2騎兵師団の参謀長となった。その後、参謀本部での勤務を経て、ベッサラビアで騎兵軍団の参謀長に就いた。スペイン内戦では共和国軍の軍事顧問を務め、「マリーノ大佐」と呼ばれた。少将に昇進し、フルンゼ軍事アカデミーで教官となった。

1941年6月の独ソ戦開始時は、オデッサ軍管区の第48軍団長だった。8月には南部戦線で第6軍の司令官となり、12月には南部戦線の司令官となったが、敗北により降格され、1942年8月に第66軍の司令官を務めた。11月に第2親衛軍を指揮し、スターリングラードの戦いでドイツ軍を破った。この戦いの終結後の1943年2月に大将に昇進して、再び南部戦線司令官となり、戦局の推移に伴って南西戦線(のちの第3ウクライナ戦線)、第2ウクライナ戦線を指揮した。ルーマニア、ハンガリー、スロバキアへの突破に成功し、1944年9月にソ連邦元帥に列せられて、ルーマニア軍の降伏を受け入れた。1945年4月には、連合国のルーマニア管理委員会の委員長を務めた。1945年8月にはザバイカル戦線に異動して、日本軍との戦いに従事した。

終戦後は、ザバイカル・アムール軍管区司令官となり、1946年からソビエト連邦最高会議の代議員を務めた。1947年にソ連極東軍の総司令官に就き、朝鮮戦争では中国人民解放軍や朝鮮人民軍と緊密な連携を持った。1956年3月にイワン・コーネフの後任として陸軍総司令官と国防第一次官に就任し、翌年にはフルシチョフとの権力争いに敗れたジューコフの後任として国防大臣になった。1956年には党の中央委員会委員に選出された。晩年は糖尿病と心臓の持病に苦しみ、国防大臣に在任したまま、1967年3月31日にモスクワで膵臓癌のため死去した。

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