伝記
ポール・ムニは、1895年9月22日、オーストリア=ハンガリー帝国ガリツィアのルヴフ(現在はウクライナ領リヴィウ)で、ユダヤ系の家庭に、メシレム・マイエル・ヴァイゼンフロイントとして生まれた。両親はサリー(旧名ハヤ・ツィルケ・フィシュラー)とフィリップで、最初に覚えた言語はイディッシュ語だった。7歳だった1902年に家族でアメリカへ移住し、シカゴに住んだ。少年の頃は「ムーニー」と呼ばれており、のちの芸名はここから来ている。両親はともにイディッシュ演劇の俳優で、彼も12歳のときにシカゴのイディッシュ劇場の舞台に立ち、最初の役で80歳の老人を演じた。10代のうちにメイクの技術を身につけ、はるかに年上の人物にも扮することができたため、映画史家には「新しいロン・チェイニー」と呼ばれたという。やがて、モーリス・シュワルツに認められ、そのイディッシュ・アート・シアターに出演した。1921年にはイディッシュ劇の女優ベラ・フィンケルと結婚し、1967年の死まで添い遂げた。
29歳でブロードウェイに進出し、英語での舞台に立つようになった。1926年のブロードウェイ初出演の舞台で、老いたユダヤ人を演じたのが、最初の英語での役だった。1929年にフォックスと契約し、名前を簡略化して「ポール・ムニ」とした。映画の初出演作でアカデミー賞にノミネートされたが、興行は振るわず、7人の役を演じた2作目の映画も失敗に終わった。提示される役柄に不満を持ち、ブロードウェイに戻って、大ヒットした舞台『法律顧問』に主演した。
1932年にハワード・ホークス監督のたっての希望で、ギャング映画『暗黒街の顔役』に主演し、凄みの利いた演技で一躍スターとなった。同じ年のもう一本の映画でも、アカデミー賞にノミネートされ、ワーナー・ブラザースと長期契約を結んだ。会社は「スクリーン最高の俳優」として売り出した。1935年の映画では、正式な候補ではなかったが、投票の書き込みで次点になった。1936年の『科学者の道』で、ルイ・パスツールを演じてアカデミー主演男優賞を受賞し、ヴェネツィア国際映画祭の男優賞も獲得した。この映画は、ムニがワーナーに働きかけて、リスクを冒して製作させたものだった。以後、『ゾラの生涯』(1937年)でゾラを演じて再び候補となり、1939年には『フアレス』で主役を務めるなど、伝記映画の役が増えた。
役作りに徹底して打ち込む俳優として知られ、実在の人物の特徴や癖を研究した。その真摯な姿勢が、少ない出演作で5回のアカデミー賞ノミネートにつながったといわれる。一方で気難しい面もあり、撮影現場で得意のバイオリンを弾いて場を和ませる一方、赤い服を着た人を見ると決まって激怒したという。1941年に契約上の問題でワーナーを離れ、彼が演じる予定だったといわれる『ハイ・シェラ』のロイ・アールの役を得て、スターになったのがハンフリー・ボガートである。舞台では、1955年の『風の遺産』でトニー賞を受けた。1959年の映画で5度目のアカデミー賞ノミネートを受けたのち、引退した。1967年8月25日に没した。マーロン・ブランドが最も尊敬した俳優とも言われている。
同じ年に亡くなった人物
- アレクサンデル・ヴァット (1967年没)
- ジョージ・ハッケンシュミット (1967年没)
- コダーイ・ゾルターン (1967年没)
- アンソニー・マン (1967年没)
- カール・シューリヒト (1967年没)
同じ地域に関係する人物
- エディ・アダムス (2008年没)
- F・スコット・フィッツジェラルド (1940年没)
- アレクサンダー・マッケンドリック (1993年没)
- バーバラ・ビリングズリー (2010年没)
- ロバート・フォスター (2019年没)