HISTORICAL PERSON · 1284年没

北条時宗

5代執権時頼の次男で、鎌倉幕府の第8代執権。18歳で就任し、二月騒動などで得宗権力を強化した。元の使節を処刑し、博多湾岸に石塁を築いて国防を固め、文永・弘安の二度の元寇を退けた。

生涯
1284年没
死亡地
—
出生地
日本(神奈川県 / 鎌倉)
出典
世界地図
日本(神奈川県)

伝記

北条時宗は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府第8代執権である。5代執権北条時頼の次男で、北条氏の嫡流である得宗家に生まれた。1251年5月15日に鎌倉で生まれた。長兄の宝寿丸、のちの時輔は側室の子だったため、正寿と呼ばれた時宗が後継者に指名された。1256年に父の時頼が病のために出家すると、翌1257年、7歳の時宗は将軍宗尊親王の加冠で元服し、親王から「宗」の字を賜って相模太郎時宗と名乗った。このとき、のちに義兄となる安達泰盛が烏帽子を運んだ。時輔の元服とは規模に大きな差があり、時宗が次の棟梁であることが周知された。1260年には小侍所の別当となり、先に別当だった北条実時に学んだとみられる。1261年には安達義景の娘、堀内殿と結婚した。

1263年に父が死ぬと、13歳で得宗の地位を継いだ。1264年に連署となり、執権の北条政村や実時と協力して、1266年に宗尊親王を将軍から退けて京都へ送り、その子の惟康王を将軍に立てた。1268年正月、高麗の使節が元の国書を携えて大宰府に来た。蒙古への服属を求める内容だった。同年3月5日、時宗は政村から執権を譲られ、18歳で第8代執権となった。

時宗は政村、泰盛、実時、平頼綱らの補佐を受け、国書への返牒を協議したが、度重なる国書には一切返事をしなかった。大田文の作成や御家人の所領譲渡の制限、異国警固の強化、異国調伏の祈祷などを行わせている。1271年に使節が再来して武力侵攻を警告すると、西国の御家人に戦の準備を命じ、異国警固番役を置いた。1272年には、名越時章・教時兄弟と、異母兄で六波羅探題南方の時輔を討った。時章は謀反の心がなく誤殺だったとされ、討手の御内人5人は斬首された(二月騒動)。この年に後嵯峨法皇が亡くなると、後深草上皇と亀山天皇のどちらが治天の君になるかの裁定を幕府が任された。後嵯峨の中宮の大宮院に真意を問い、亀山の名があがったため、亀山の親政が決まった。1274年には、日蓮を佐渡に流した。

同じ1274年に元軍が襲来した(文永の役)。時宗は激戦の末に元軍の進撃を阻んだ。翌年、降伏を勧める杜世忠らが来日すると、連署の北条義政の反対を押し切って処刑した。同じ年、治天の座を逃した後深草が抗議して出家しようとすると、後深草の皇子の熙仁親王、のちの伏見天皇を皇太子に立てさせた。1279年に来日した周福らも大宰府で処刑させている。高麗への出兵を一時は命じたが、費用を考えて中止し、異国警固番役を拡充して、博多湾岸に石塁を築かせた。北条一族を九州の守護に任じるなど、得宗の専制を強めた。1281年の弘安の役では、元軍は2か月近い戦いに苦しんだあと、台風で混乱し、日本軍の総攻撃で壊滅した。しかし戦後は恩賞の問題が持ち上がり、財政難のなかで、3度目の襲来に備えなければならなかった。

1284年4月4日、病床にあった時宗は出家し、同じ日に34歳(満32歳)で亡くなった。死因は結核とも心臓病ともいう。自ら開いた円覚寺に葬られた。禅を篤く信じ、蘭渓道隆に教えを受け、その没後に中国から無学祖元を招いた。無学祖元は三回忌に、時宗を、感情に走らず驕らない立派な人物と称えた。蒙古を退けた功績を称える見方がある一方、使者の処刑や二月騒動などから、苛烈な政治家とみる評価もある。

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