伝記
ヨハネス・グーテンベルクは、ドイツの金細工師であり印刷業者である。ヨーロッパにおける活版印刷技術の開始者といわれる。活版印刷そのものは中国で先に行われており、11世紀に北宋の畢昇が活字を並べた組版で印刷していたことが記録に残る。ヨーロッパではこれに続いて、13世紀にモンゴル軍がドイツ国境に達した直後、木版印刷が現れたと考えられている。
マインツの上流階級の商人フリーレ・ゲンスフライシュ・ツア・ラーデンと、その2番目の妻エルゼ・ヴューリヒの間に生まれた。生年は明らかでなく、1398年ごろと見られている。父が大司教配下の金細工師だったとする記述もあるが、織物の貿易商だったとする説が最も有力とされる。一家は代々、大司教の造幣所と関わり、金属加工の知識に長けていたと考えられている。当時のマインツでは市民と貴族の争いが絶えず、一家は1411年以降、母が相続した地所のあるエルトヴィレ・アム・ラインへ何度も逃れた。1430年にはマインツにいなかったことだけが分かっており、1434年以降はシュトラースブルクに移り住んだ。1437年には裕福な商人に宝石研磨の技術を教えていた証拠もあるが、その技術をどこで身につけたかは不明である。
1439年ごろ、アーヘンの巡礼者に研磨した金属鏡を売る事業に出資を募ったが、同市の行事が洪水で1年延期されたため、集めた資金を返せなくなった。出資者を満足させるため「秘密」を共有すると約束したといわれ、その秘密が活字による印刷の着想だったのではないかと言われている。その後の数年の記録には空白があり、1448年にマインツへ戻ると義理の兄から借金をしており、印刷機などの機器をそろえる資金にしたと見られる。1450年までには印刷所の運営を始め、最初に印刷したのはドイツ語の詩とされる。裕福な金貸しフストから設備費として800グルデンを借りて共同事業者となり、フストが連れてきたシェッファーは、パリで写字生の経験があり、書体の設計に関わったと考えられている。聖書の印刷のためにフストからさらに800グルデンを借り、1452年にその仕事を始めた。一方で、ラテン語の文法書など他の印刷物も手がけ、教会向けの贖宥状は数千枚に及んだ。
後に「グーテンベルク聖書」と呼ばれる「四十二行聖書」は、1455年に完成した。約180部が刷られ、多くは紙、一部は羊皮紙に印刷された。ところがフストはグーテンベルクを訴え、資金を別の用途に使い返済の意志もないとして、利子を含む2,026グルデンの返済を求めた。裁判所はこれを認め、グーテンベルクは印刷機や活字、印刷済みの聖書の半分などを抵当としてフストに渡すことになった。フストとシェッファーは事業を発展させ、1457年に刊行した書物では、世界で初めて奥付に印刷日と印刷者名を入れた。グーテンベルクは印刷日や自分の名を書物に記さなかった。
グーテンベルクは、それでも再び資金を集めて印刷を続けたとされる。1462年、マインツは対立する司教同士の争いに巻き込まれ、アドルフ2世大司教に従う軍勢に略奪された。彼は自宅と印刷所を失い、老齢の身でエルトヴィレ・アム・ラインへ逃れた。1465年、印刷術考案の功績によりアドルフ大司教の宮廷に従者として召し抱えられ、衣装一式と穀物、免税のワインを与えられた。1468年、70歳ごろで世を去り、マインツの教会に埋葬されたが、その教会と墓地は後に破壊され、墓は現存しない。
同じ年に亡くなった人物
- ゼラ・ヤコブ (1468年)
- 世祖 (朝鮮王) (1468年没)
- ジャック・ダレー (1468年)
- クンバー (1468年没)
- セレフェディン・サボンジュール (1468年没)
同じ地域に関係する人物
- エグベルト (993年没)
- フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯) (1632年没)
- マリオン・G・デーンホフ (2002年没)
- Hannelore Kohl (2001年没)
- アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン (1966年没)