HISTORICAL PERSON · 1472年没

レオン・バッティスタ・アルベルティ

初期ルネサンスの人文主義者・建築家で、「万能の人」の最初の典型とされる。『絵画論』『建築論』を著し、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の正面などを設計。多アルファベット換字式暗号も発明した。

生涯
1472年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(ジェノヴァ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

レオン・バッティスタ・アルベルティは、1404年にジェノヴァで生まれ、1472年4月25日にローマで没した初期ルネサンスの人文主義者、建築理論家、建築家である。法学、古典学、数学、演劇作品、詩作を専攻し、絵画と彫刻については実作だけでなく理論の構築にも寄与した。音楽や運動競技にも秀で、両足を揃えたまま人を飛び越したと伝えられる。ルネサンス期に理想とされた「万能の人」の最初の典型と言われる。ただし、確実に彼のものとされる絵画や彫刻は現在伝わっておらず、建築作品も少数にとどまる。

アルベルティ家はフィレンツェで銀行を営む有力な商人の家であったが、政治的な対立によって国外に追放された。レオンはロレンツォ・アルベルティの庶子として亡命先のジェノヴァに生まれ、1414年にはヴェネツィアに移った。早くから英才教育を受け、パドヴァで古典学と数学を学び、1421年にボローニャ大学へ進んで教会法の学位を得た。ボローニャではラテン語の喜劇を書き、当時の専門家たちも原作者を別人と受け取るほどの出来だったという。1428年に卒業し、1432年に教皇庁の書記官となるまでヨーロッパ各地を歴訪した。同じ1428年にアルベルティ家への追放命令が解かれてフィレンツェを訪れ、1434年にはエウゲニウス4世とともに再訪して、ブルネレスキ、ドナテッロ、マザッチョらと親交を結んだ。1436年にはその友人たちへ『絵画論』を献呈している。

1432年ごろローマに移り、親友フラーヴィオ・ビヨンドの仲介で教皇庁の記念物監督官となった。教皇庁では、キケロなど古代ローマの人文学に傾倒し、ウィトルウィウスの『建築について』が特に彼の目を引いたと考えられる。そこに書かれた人体比例と建築比例の理論に着目し、これを基礎に1451年までに『建築論』を完成させた。死ぬまで手を入れ続け、刊行は1485年、フィレンツェでのことである。この書は、ローマ建築の遺構の調査と『建築について』を基にしたルネサンス最初の建築理論で、建築比例と5種類のオーダーを再発見してまとめたものである。1453年からは、アクア・ヴェルジネの水路修復とトレヴィの泉の造営にも、断続的に携わった。

フィレンツェの有力商人ジョヴァンニ・ディ・パオロ・ルチェッライと親しく、パラッツォ・ルチェッライの設計を行った。全面的にオーダーを用いた最初の例で、ファサードはコロッセウムを参考にしている。リミニのシジズモンド・マラテスタ公に招かれ、1446年にサン・フランチェスコ聖堂を改装するテンピオ・マラテスティアーノの工事が起工したが、公の失脚と死により未完に終わった。サンタ・マリア・ノヴェッラ教会正面の設計も委ねられ、正方形の組み合わせと単純な比例で総大理石のファサードを構成した。1459年にピウス2世に従ってマントヴァを訪れ、1470年に再訪して、サン・セバスティアーノ聖堂とサンタンドレア聖堂の設計を請け負った。後者は最も影響力の大きい建築とされ、古代ローマの神殿と凱旋門のデザインを適用し、内部に堂々としたトンネル型ヴォールトを用いた。

『絵画論』は、遠近法と構成と物語が調和するものとして絵画を捉え、西洋絵画を確立したとまで評される。多アルファベット換字式暗号を発明したこともよく知られ、思考は力学や家庭経済にも及んだ。1450年ごろには板の傾きで風圧を測る風力計を考案し、湿度計も作ったとされる。1472年にローマへ戻って没した。親切で礼儀正しく紳士的で、生涯を通じて尊敬されたという。

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