HISTORICAL PERSON · 1968年没

マルセル・デュシャン

フランス生まれの美術家。既製品を作品とする「レディメイド」を提示し、男子用小便器の『噴水』で物議を醸した。20世紀美術に大きな影響を与えた。

生涯
1968年没
死亡地
フランス共和国(オー=ド=セーヌ県 / ヌイイ=シュル=セーヌ)
出生地
フランス共和国(Blainville-Crevon)
出典
世界地図
フランス共和国(オー=ド=セーヌ県)

伝記

マルセル・デュシャンは、1887年7月28日にフランスのノルマンディー地方で、裕福な家庭に生まれた美術家で、20世紀美術に決定的な影響を残した。父は公証人で、7人兄弟の3男だった。兄のガストンとレーモンは10歳以上年長で、それぞれジャック・ヴィヨン、レーモン・デュシャン=ヴィヨンの名で、美術家として知られる。妹のシュザンヌは、のちにデュシャンのモデルや協力者を務めた。兄たちの影響で少年時代から絵を描き始め、高校を卒業して、1904年にパリに出ると、兄らと合流した。兵役の後は、アカデミー・ジュリアンで絵画を学んだ。初期には、印象派やフォーヴィスム風の作品を描いたほか、キュビスムと未来派の影響を受けた作品もある。

1911年にフランシス・ピカビアと知り合って影響を受け、翌1912年に出世作『階段を降りる裸体 No.2』を描いた。しかし、所属していたキュビスムを研究するグループの保守的な批判に憤慨し、作品を取り下げた。題名を変えるよう求められたのである。この1912年に複数の油絵を制作したあと、油絵をほとんど放棄した。1913年にニューヨークのアーモリー・ショーで、『階段を降りる裸体』を含む4点が展示されると、「屋根瓦工場の爆発」などと新聞で揶揄されて話題を呼んだ。この作品は、アメリカにおける彼の名を広め、ニューヨークに移り住む足がかりとなった。1915年に第一次世界大戦中のアメリカへ渡り、ニューヨークにアトリエを構えた。1919年にいったんフランスへ帰国してからは、おもにアメリカで活動した。アメリカでは、アレンスバーグ夫妻というパトロンに恵まれ、のちの主要作品の多くが、夫妻のコレクションとなって、フィラデルフィア美術館に寄贈された。

油絵を放棄したあと、既製品に手を加えたもの、あるいはそのままを作品として示す「レディ・メイド」を数多く発表した。1913年の『自転車の車輪』が、最初のレディ・メイドとされる。1917年には、男子用の小便器に「リチャード・マット」と署名した作品『泉』を、ニューヨーク・アンデパンダン展に匿名で出品したが、展示委員会の議論の末、展示されなかった。彼は自分が出品者であることを伏せたまま、委員の立場から抗議文を新聞に発表して、委員を辞任した。この作品は最終的に紛失し、現在見られるのは、写真か複製に限られる。のちの調査では、世界の芸術をリードする500人が、最も影響のある現代芸術の作品の1位に、この『泉』を選んだ。なお、近年の研究には、『泉』を含む多くの作品は、ドイツ出身の前衛芸術家エルザ・フォン・フライターク=ローリングホーフェンが制作したとする見方もある。

1915年に着手した『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』、通称「大ガラス」は、1923年に未完のまま放棄された。2枚のガラスの間に油彩や鉛の箔を置いた作品で、構想を記した難解なメモと合わせて一つの作品とされる。後半生には、ほとんど作品らしい作品を残さず、セミプロとも言うべき腕前だったチェスに没頭した。「芸術を捨てた芸術家」と神話化され、彼を批判する声もあったが、死後、ひそかに制作されていた遺作が発表され、周囲を驚かせた。1955年にアメリカ国籍を取得し、1968年10月2日に没した。墓碑銘に刻まれた「死ぬのはいつも他人ばかり」という言葉も有名である。

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