伝記
ピエトレルチーナのピオ、通称ピオ神父は、1887年5月25日に南イタリアのカンパニア州の農村ピエトレルチーナに生まれたカプチン会の司祭である。出生名はフランチェスコ・フォルジョーネといい、聖痕や病者の治癒、予言などで知られる。ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世によって、1999年に列福され、2002年に列聖された。両親のグラージオ・マリオ・フォルジョーネとマリア・ジュゼッパは貧しい農民で、フランチェスコは7人きょうだいの4番目だった。生まれた翌日に、城壁の上に建つサンタ・アナ教会で洗礼を受け、のちにこの教会でミサの侍者を務めた。5歳の時には、すでに人生のすべてを神に捧げる決意をしていたという。自分に苦行を課すため、石畳の上で石を枕にして寝て、母にたしなめられたという話も伝わる。10歳になるまで農夫として働き、家族の羊の群れの世話をした。母の語るところでは、幼い頃から、イエスや聖母マリア、守護天使が見えて、会話ができたとされる。一家は毎日ミサに出席し、毎晩ロザリオの祈りを欠かさなかった。両親と祖父母は読み書きができなかったが、聖書を暗記して、その物語を子供たちに語って聞かせた。
修道士になりたいと両親に告げると、両親はモルコーネのカプチン会に出向いて、入会の資格を確かめた。修道会は受け入れに興味を示したが、そのためには、さらなる学歴が必要だった。父は家庭教師を雇う資金を得るため、アメリカへ出稼ぎに行った。1899年9月27日に堅信礼を受け、個人教授を受けて入会条件を満たし、1903年1月6日、15歳でモルコーネのカプチン会の修練所の志願者になった。同月22日に修練者となり、清貧、従順、貞潔の誓願を立て、ピエトレルチーナの守護聖人である教皇ピウス5世にちなんで、ピオ修道士と呼ばれることになった。6年間の学習をして、1907年1月27日に終生誓願を立て、1910年8月10日、ベネヴェントの大聖堂で司祭に叙階された。同月14日に初ミサを捧げている。
1910年9月7日、ピオ神父が祈っていると、イエスと聖母マリアが現れて聖痕を与えたと伝えられる。傷を恥ずかしく思った神父が主に祈ると、傷は治癒したという。子供の頃から病気がちで、6歳で重い胃腸炎、10歳で腸チフス、17歳で食欲不振や失神、激しい頭痛に悩まされ、体温計が壊れるほどの高熱を出したこともあった。肺炎のため、カプチン会士を続けることを条件に、1916年前半まで故郷の家族のもとで過ごすことが許され、ミサをあげて、学校で教えた。1916年9月4日、ガルガノ山のサン・ジョヴァンニ・ロトンドにある、聖母マリアの恩寵カプチン会修道院で活動するよう命じられた。兵役を除いて、生涯のほとんどをこの地で過ごすことになる。第一次世界大戦では、1917年8月に徴兵されたが、健康がすぐれず入院し、兵役は合計182日だった。
霊的指導者として多くの人々を「霊的な子」と考え、毎週の懺悔、毎日の聖体拝領、霊的読書、黙想、良心の糾明の5つを勧めた。「祈りなさい、希望を持ちなさい、そして心配しないでください」という言葉が有名である。片時もロザリオを手放さず、「ロザリオは武器だ」と語った。生涯を通じて喘息性の気管支炎や腎結石、胃潰瘍などに悩まされ、1956年には滲出性胸膜炎で4か月寝たきりになり、高齢になると関節炎にも苦しんだ。1968年9月23日に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ハンス=ユルゲン・シュトゥムプフ (1968年没)
- ホセ・ナサシ (1968年没)
- ヨーゼフ・カイルベルト (1968年没)
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- キャーズム・オザルプ (1968年没)
同じ地域に関係する人物
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