伝記
オットー・シュテルンは、英語ではオットー・スターンと呼ばれ、1888年2月17日、プロイセン王国のシレジア地方のゾーラウに、ユダヤ系ドイツ人の家庭の子として生まれた物理学者である。両親は父オスカーと母エウゲニア・ローゼンタールで、植物学者となる弟クルトのほか、三人の姉妹がいた。1892年に一家は、父が製粉所を持つブレスラウに移った。ブレスラウで学校に通い、フライブルクやミュンヘンで学んだのち、ブレスラウ大学に戻り、1912年にオットー・ザッカーのもとで、物理化学の博士論文を仕上げた。論文は、さまざまな二酸化炭素溶液における浸透圧の動力学とヘンリーの法則に関するものだった。
「冒険心」に駆られて、教授とフリッツ・ハーバーを通じてアインシュタインに連絡をとり、1912年の春からプラハ大学で、続いてチューリヒ工科大学で、アインシュタインのもとに迎えられた。チューリヒでは私講師として、ペーター・デバイらと知り合い、エントロピーの理論に取り組んだ。1914年にはマックス・フォン・ラウエに招かれてフランクフルト大学へ移り、1915年に物理化学の教授資格を得た。第一次世界大戦ではロシア戦線のウォムジャに召集され、気象の測定にあたったが、時間に余裕があり、理論物理学の問題に取り組んだ。終戦の頃にはベルリンの部署に移り、マックス・ボルンやヴァルター・ネルンスト、ジェームズ・フランクらと交わった。
初期の研究は理論物理学の分野だったが、1919年ごろから実験物理学へ移り、フランクフルトでボルンとともに、原子線や分子線の実験方法の開発に取り組んだ。真空の箱を小さな穴でつないだ装置で、ほぼ同じ速さの粒子の直進する線を作り、分子の速さを測って、マクスウェルの速度分布の法則を確かめた。同僚のヴァルター・ゲルラハらの助けを借りて、銀の原子線を磁場の中に通し、原子の角運動量の向きを調べた。ゲルラハが空間的に量子化された向きを観測したこの実験が、1922年のシュテルン=ゲルラハの実験で、古典物理学では説明できない原子のふるまいを、分光学によらずに初めて示した。1921年にロストック大学の教授となり、1923年にはハンブルク大学の物理化学研究所の教授に就いた。ここで詳細な研究計画を立て、大きなチームを率い、のちのI・I・ラービやエミリオ・セグレらの学生を受け入れた。結晶による物質波の回折の観測で、ド・ブロイの仮説も実験で確かめた。1924年には、帯電した電極の近くの電気二重層について、イオンの最接近距離という条件を課し、有限の大きさの分子層という着想を論文で発表している。
1933年、ユダヤ系だったためナチス政権に職を追われ、ハンブルクの地位を辞して渡米し、ピッツバーグのカーネギー工科大学の物理学教授となった。1945年に引退するまで同大学で研究し、その間の1933年に陽子の磁気モーメントを測定した。この業績で1943年のノーベル物理学賞を受賞した。受賞までに八十二回も推薦されたのは、当時の記録だった。デンマーク王立科学文学アカデミーの会員(1936年)や全米科学アカデミーの会員(1945年)にもなっている。引退後はカリフォルニアに移り、カリフォルニア大学バークレー校の名誉教授となった。1969年8月17日、バークレーで心臓発作のため亡くなった。生涯独身で、子はいなかった。
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