HISTORICAL PERSON · 1536年没

デジデリウス・エラスムス

ネーデルラント出身の人文主義者・神学者。『痴愚神礼賛』を著し、ギリシア語新約聖書の対訳本はルターのドイツ語訳聖書の原版になった。

生涯
1536年没
死亡地
スイス連邦(バーゼル=シュタット準州 / バーゼル)
出生地
オランダ(ロッテルダム)
出典
世界地図
スイス連邦(バーゼル=シュタット準州)

伝記

デジデリウス・エラスムスは、ネーデルラント出身の人文主義者、カトリック司祭、神学者、哲学者である。1469年(1466年や1467年とする説もある)に、ロッテルダムで、司祭の父ロゲルと医師の娘だった母マルガレータの間の子として生まれた。二人は正式な夫婦ではなく、エラスムスは私生児だった。兄にピーテルがいる。1483年に流行した疾病で両親を亡くし、兄とともに後見人によって共同生活兄弟団の寄宿学校に入れられ、「新しき信心」の教育を受けた。「エラスムス」は聖人にちなむ洗礼名で、「デジデリウス」は1496年から自分で使い始めた名前である。

1487年に親族の意思でステインのエマオ修道院に入り、聖アウグスチノ律修参事会員となった。このころからラテン語の古典を読み漁り、キケロやアウグスティヌスなどの研究に没頭し、イタリアへ行きたいと望むようになった。修道院の暮らしは本意ではなく、1492年に司祭に叙階されたのち、1493年か1494年ごろに、卓抜したラテン語能力を認められてカンブレーの司教秘書に抜擢され、修道院を離れることができた。1495年には司教の許しを得て、神学博士号を目指しパリ大学に入り、モンテーギュ学寮に入った。貧しかったためラテン語の個人教授を始め、これが縁で1499年にイングランドへ渡り、ジョン・コレット、終生の友となるトマス・モア、若きヘンリー王子らと交わった。コレットからはギリシア語の知識不足を指摘され、さらに研鑽を積むよう促された。

1500年に『古典名句集』を、1504年には一般信徒向けの信心書『エンキリディオン』を出し、名声が高まった。1506年には憧れのイタリアを訪れ、トリノ大学で神学博士号を授与された。イギリスに向かうためアルプスを越える道中で、『痴愚神礼賛』の構想を得たという。1514年にイギリスを離れてバーゼルに着き、書店主ヨハン・フローベンと意気投合して、以後の著作は彼の書店から出版された。1516年に出した『校訂版新約聖書』と全9巻の『ヒエロニムス著作集』は、学識者に高く評価された。ただ、エラスムス自身はラテン語版の校訂に力を入れており、添えたギリシア語テキストは、ヨハネの黙示録の一部を自分で訳すなど、正文批判の水準では稚拙だったともいう。この頃の学者としての高い評価は、1516年にブルゴーニュ公シャルル(のちのカール5世)の名誉参議官に任命されたことにも表れている。それでもルターは、1521年のドイツ語訳聖書で1519年の第二版を底本にした。

1517年にルターが『95ヶ条の論題』を発表すると、エラスムスは当初その聖書中心主義に好意的で、不当に断罪されないよう手を尽くしつつ、教会の分裂を起こさぬよう自重を求めた。だが事態は過激になり、二人の思想の違いが明らかになって、双方の支持派から疎まれた。1524年に『自由意志論』を書くとルターは『奴隷意志論』で対抗し、エラスムスは1526年の『反論』を最後にこの問題から手を引いた。1521年にルーヴェンを去ってバーゼルへ移り、のちにバーゼルで宗教改革が進むと耐えられずフライブルクへ避け、1535年に戻って、1536年7月12日に同地で死去した。遺産を市に託し、その利子を貧しい人々のために使うことを願った。1529年の『幼児教育論』では、子供も一個の人間として扱うべきだとして、鞭による教育を非難した。生涯カトリック教会に忠実で、プロテスタント側に身を投じることはなかった。そのコレクションは2023年に世界の記憶に登録された。

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