伝記
ハドリアヌスは、第14代ローマ元首(皇帝)で、在位は117年から138年、五賢帝の一人に数えられる。76年1月24日に生まれた。父はトラヤヌスの従兄弟で、ヒスパニアの属州バエティカの町イタリカの出身、母はカディス出身のヒスパニア人であった。10歳で父を亡くし、トラヤヌスと、同郷の騎士アッティアヌスの後見を受けて育った。ギリシア文化に強い関心を示したことから、周囲に「小さなギリシア人」と呼ばれたという。
18歳ごろから公務に就き、中欧やバルカンで軍務を重ねた。97年には、ネルウァに後継者と定められたトラヤヌスのもとへ、軍団の使節として祝辞を述べに赴いた。トラヤヌスの妻プロティナの勧めで、トラヤヌスの姪ウィヴィア・サビナを妻に迎えている。101年に財務官となり、トラヤヌスの演説の草稿も書き、ダキア戦争に従軍し、下パンノニア総督やアテナイのアルコンなどを歴任した。パルティア遠征にも従い、117年にシリア総督となった。ただ、経歴に特筆すべき点は乏しく、この時点で明確な後継者だったとは言い切れなかった。
117年8月、トラヤヌスがキリキアの小村で病没すると、ハドリアヌスを養子とする遺言があったという報せが届き、彼は軍団の支持を得て元首就任を宣言した。だが遺言の真偽は古代から疑われ、歴史家カッシウス・ディオは、父からの伝聞として、親衛隊長官アッティアヌスとプロティナによる捏造だったと記している。
就任して間もなく、執政官経験者の有力な元老院議員四人が処刑される事件が起きた。実行したのはアッティアヌスとされ、ハドリアヌスの命令だったとの説もあり、罪状は暗殺の陰謀とされた。ディオは、有力な競争相手を除くための口実だった可能性も示している。この事件は元老院に強い衝撃を与え、118年7月にローマへ戻ったハドリアヌスは、以後は元老院議員を処刑しないと誓った。それでも、彼と元老院の間には大きな禍根が残った。
治世では、トラヤヌスが獲得した東方の領土を放棄してパルティアと講和し、拡大路線を改めた。属州の有力者にローマ市民権を与えて人材の登用も進めた。121年ごろからは属州の視察旅行に出て、ガリア、ゲルマニア、ブリタニア、ヒスパニア、シリア、アナトリア、ダキア、ギリシアを回り、128年からは再びアフリカ、ギリシア、エジプト、パレスチナなどを巡って、134年に帰還した。その中で、ブリタニアの長城をはじめ、各地の国境の整備が進んだ。パンテオンの再建や、アテナイでのゼウス・オリュンピオス神殿の完成といった造営事業にも力を入れ、法務官の告示を整理して『永久告示録』も編纂した。
130年、寵愛した美少年アンティノウスがエジプトのナイル川で溺死し、ハドリアヌスは深く嘆いて、彼の名を冠した都市を建てた。同年、エルサレムの跡地に「アエリア・カピトリーナ」を建設し、132年に割礼を禁じたことが、ユダヤ人の大反乱を招いた。反乱は135年に、一説に58万ともされる犠牲を出して鎮圧された。135年に病を得ると後継者選びを始め、136年に無名の貴族を養子としてルキウス・アエリウス・カエサルと名乗らせた。当初後継者と目された姪の孫フスクスと、その祖父セルウィアヌスはこれに反発し、内紛の拡大を恐れた皇帝に処刑された。ルキウスが138年に病没すると、ハドリアヌスはアントニヌス(後のアントニヌス・ピウス)を養子とし、彼にマルクス・アウレリウスらを養子とさせた。病は重く、周囲に自殺の手助けを求めたとも伝わり、138年7月10日、バイアでアントニヌスに看取られて62歳で亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ルキウス・アエリウス・カエサル (138年没)
- Carpocrates (138年)
- ファーズマン2世 (138年没)
同じ地域に関係する人物
- Ganicus (紀元前70)
- アーネスト・チェザロ (1906年没)
- エンリコ・デ・ニコラ (1959年没)
- マリー・ガブリエーレ・イン・バイエルン (1912年没)
- マルクス・クラウディウス・マルケッルス (アウグストゥスの甥) (紀元前23年没)