HISTORICAL PERSON · 1970年没

ガマール・アブドゥル=ナーセル

エジプトの軍人・政治家で第2代大統領。汎アラブ主義を掲げてシリアとのアラブ連合共和国を建国し、初代大統領に就いた。

生涯
1970年没
死亡地
エジプト・アラブ共和国(カイロ県 / カイロ)
出生地
エジプト・アラブ共和国(バコス)
出典
世界地図
エジプト・アラブ共和国(カイロ県)

伝記

ガマール・アブドゥル=ナーセル(日本ではナセルと表記されることが多い)は、1918年1月15日、エジプト北部の地中海沿岸の都市アレクサンドリアの東端の地区で、郵便局長アブドゥル=ナセル・フセインの息子として生まれた。父は上エジプトのアシュート近郊の出身で、一族は曽祖父の代からベニ・ムルに移り住んだ中流の自作農であった。祖父フセインは、メッカ巡礼を果たし寺子屋を設立した地元の名士で、母ファヒマはアレクサンドリアの出身だった。当時のエジプトはオスマン帝国から独立したものの、イギリスの保護国となっていた。8歳のとき、両親の意向で首都カイロに住む叔父ハリールに預けられた。ハリールは1919年に反英組織に参加して投獄された経験があり、休日にはその獄中生活を甥に語って聞かせ、少年のヒロイズムをいっそう掻き立てた。

1928年の冬、母が弟の出産で亡くなったが、父はナセルを気遣ってその死を伝えなかった。翌年の夏、帰郷して初めて知ったナセルは父に激しく憤り、しばらく溝が生まれた。元々陽気ではなかった性格は、母の死を機にいっそう憂いを帯びて控えめになり、容易に内心を明かさない人格が形づくられていった。母の死を引きずって小学校で二度留年し、1930年にはデモに参加して一晩拘留された。その後も学校を転々として、落第と中退を重ねたが、1933年に父がカイロの郵便局長になると中学に入学した。このころ青年エジプト党の入党勧告を受け、民族運動にのめり込んでいく。中学では演劇部に所属し、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』でアントニウスの役を熱演して、教員や生徒、父まで感激させたという。1935年11月12日の学生デモでは、保安隊と衝突して銃弾が額をかすめる傷を負い、翌日には名前が新聞に載った。学校から退学処分を受けたが、学生たちの反対運動で復学した。

1936年、それまで上流階級しか入れなかった士官学校に、中流層以下の入学枠が設けられ、その第1期生を受験した。しかし、親族に軍人がいないことを面接官に嘲笑されて落ち、警察学校も学生運動の記録を理由に拒まれた。やむなく大学の法学部に入ったが、1学期で退学して士官学校に再挑戦した。有力者のコネが必要と考え、選定委員会の委員長だった少将に面会を申し出て、愛国の情熱を込めて志望動機を訴えると、少将は助力を約束した。ナセルは倍率100倍にもなった試験を突破し、3月17日、士官学校2期生として入学した。同期には、のちに副大統領となるアブドルハキーム・アーメルや、第三代大統領となるアンワル・アッ=サダトがいた。それまで落第生だった彼は、在学中にたちまち頭角を現した。1938年6月、16か月で繰り上げ卒業して歩兵少尉に任官し、アシュート近郊に赴任した。ここで英軍将校の堕落とエジプト人への差別意識を目にして、イギリスへの憎悪を強めた。アーメルやサダトらと初めて会合を開き、腐敗と王政の打倒を誓い合った。

1948年に第一次中東戦争が始まると、少佐として第6軍参謀となり、腹部に銃創を負いながらも1か月で戦線に復帰して、ファルージャの戦いで勇名をはせた。軍上部の杜撰な指揮と劣悪な装備に怒りを募らせ、「真の戦場はここではなく、エジプトにあるのだ」と言ったとされる。アラブ連合軍が敗北したあと、反英愛国の将校らの秘密結社を自由将校団と名乗り、翌1950年には内部の革命実行委員会の長に選ばれて、実質的な指導者となった。のちに第2代エジプト共和国大統領となり、汎アラブ主義を掲げてアラブ連合共和国の初代大統領に就いた。1970年9月28日に死去した。

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