伝記
ジュゼッペ・ウンガレッティは、1888年2月8日、エジプトのアレクサンドリアで、イタリアのルッカ県出身の両親のもとに生まれた。父アントニオはスエズ運河の工事に携わった労働者で、息子が生まれて2年後に、過酷な労働の年月で患った水腫のために亡くなった。母マリア・ルナルディーニは自分のパン屋を営んで息子の学費を工面し、アレクサンドリアで最も名高い学校の一つであるスイス人学校に通わせた。詩への愛はこの学校時代に芽生えた。エジプトの町は、古い伝統とさまざまな国の人々がもたらす新しい刺激に満ちており、ウンガレッティ家にもスーダン人の乳母やクロアチア人の女中、アルゼンチン人の世話役がいたという。フランスの雑誌を通じてフランス文学に親しみ、『ラ・ヴォーチェ』誌の購読を通じてイタリア文学にも近づき、ランボー、マラルメ、レオパルディ、ニーチェ、ボードレールなどを読んだ。1906年には、イタリアから移り住んだエンリコ・ペアと出会い、社会主義者やアナーキストの集まる赤い小屋で交流した。
1912年、カイロでの短い滞在を経てエジプトを離れ、フランスに向かった。途中で初めて見たイタリアの山がちの風景は、平坦なエジプトとの対比で強い印象を残した。パリではパリ大学に学び、アンリ・ベルクソンの講義などに通った。国際的な芸術の環境に触れ、アポリネールとは固い友情を結び、パピーニ、ソッフィチ、デ・キリコ、モディリアーニ、ブラックら詩人や画家と交わった。1913年には、幼なじみで同じホテルの部屋に暮らしていたモハメッド・シェアブが自殺した。ウンガレッティは1916年に追悼の詩をささげている。
1914年に第一次世界大戦が始まると、ミラノで参戦論を支持し、志願兵になった。1915年5月24日にイタリアが参戦すると、ブレシア旅団の歩兵連隊に入り、カルソ地方でのオーストリア軍との戦闘に参加して、ここで詩作を始めた。戦場で書き留めた詩は、友人の若い将校エットレ・セッラが集めて、1916年に80部だけウーディネで印刷され、『埋もれた港』と題された。1918年にはフランスの戦線で戦った。同年11月9日にパリに戻ると、友人アポリネールがスペイン風邪で亡くなっているのを自室で見つけた。戦後は『ヴォーチェ』誌の同人となり、一種の象徴詩ともいえるエルメティズモ(錬金術的)の詩風を確立した。生と死を見つめ自己を見据える詩風と、簡潔でありながら従来の詩の伝統を越え出る新しい表現によって、イタリアの現代詩を切り開き、20世紀イタリアの最高の詩人の一人とされる。ムッソリーニのもとでジャーナリストとしても活動した。
1936年にブラジルへ渡り、サンパウロ大学のイタリア語学科の教授となったが、息子を虫垂炎で失った。1942年に帰国してローマ大学の現代文学科の教授に就いた。イタリアの降伏後の1944年に教職を追放されるが、同僚らが復職を求めて投票し、1947年に復職して1958年まで務めた。同年に妻を失った。1970年、ノイシュタット国際文学賞を受けるために渡米したところ、気管支肺炎を患い、帰国後の6月1日にミラノで死去した。
同じ年に亡くなった人物
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