伝記
ラサロ・カルデナス・デル・リオは、1895年5月21日、メキシコ中部ミチョアカン州のヒキルパン・デ・フアレスで生まれた。父ダマソはビリヤード場を営み、母はフェリシタス・デル・リオである。三番目の子で、長男にあたり、家はプレペチャ族の血を引いていた。1911年に父が亡くなると、母と7人の弟妹を支えるため、18歳までに税の徴収人や印刷工の見習い、看守などの仕事をした。11歳で学校をやめたが、独学で読書を続け、とくに歴史書を愛読した。もとは教師になることを望んでいたが、1913年2月にウエルタがマデロ大統領を倒すと、メキシコ革命の軍に加わった。まずサパタ派の一団で大尉兼会計係を務めたが、集団は散らされ、北へ逃れてオブレゴンのもとで、のちにはビリャのもとで、1915年にビリャが敗れた後はカジェスのもとで戦った。オブレゴンの護憲革命軍北西師団で騎兵隊指揮官になったともいわれる。カジェスの命でヤキ族やサパタ派との作戦に当たり、将軍に昇進した。1920年にカランサが倒されたあと25歳で准将となり、故郷ミチョアカン州の臨時知事に任じられた。
その後、1928年から1932年までミチョアカン州知事を務め、国民革命党の党首、内務長官、陸海軍長官を歴任した。1934年の大統領選挙には、圧倒的に強力な支配政党から出馬したため、実質的に落選の可能性はなかったが、過去に例のない全国遊説を行い、圧倒的な得票で当選した。政界の黒幕だったカジェス元大統領に推されて、その傀儡として選ばれたと見られたが、就任後はカジェスとその側近、腐敗の極みにあった既存の労働組合幹部を追放した。カジェスは1936年に国外へ出てアメリカに亡命した。農民と労働者の全国組織を作り、党をメキシコ革命党に改めて、農民、労働者、民衆、軍の4部門で構成した。1917年の革命憲法にうたわれながらほとんど実行されていなかった農地改革に乗り出し、規模は2,000万ヘクタール、分配を受けた農民は77万人に上った。1937年に鉄道を国有化し、1938年には石油産業の国有化に踏み切った。石油の国有化によるペメックスの設立は、アメリカの猛烈な反発を受け、補償金の支出をめぐって財政危機に陥ったが、国民は熱狂的にこれを支持した。
スペイン内戦では、最後まで共和政府側を支援し、3,000挺とも20,000挺ともいわれる小銃を送ったほか、人民戦線の敗北によって内戦が終結すると、約10,000人の亡命者をメキシコに受け入れた。この亡命者がメキシコの文化・芸術に与えた影響は非常に大きかったと言われる。1937年には、ソ連を追われたトロツキーの亡命も受け入れている。国立理工科学院やエル・コレヒオ・デ・メヒコの創設も、この政権が手がけたことである。1940年に大統領を退いたのちは1945年まで国防長官を務め、第二次世界大戦中はアメリカとの同盟強化に努めた。1955年にはスターリン平和賞を受けた。1970年10月19日、メキシコシティで死去した。死去した年に、故郷の港町ロス・ラニトスは、功績にちなんでラサロ・カルデナス市と改名された。息子のクアウテモク・カルデナスも政治家となり、メキシコシティ市長を務めた。
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