伝記
アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーは、1881年4月22日(ロシア旧暦。グレゴリオ暦では5月4日)にロシア帝国のシンビルスクで生まれ、1970年6月11日に没したロシアの弁護士、政治家である。社会革命党の党員で、二月革命の指導者の一人であり、臨時政府の法務大臣、陸海軍大臣、首班を歴任した。
シンビルスクの古典中高等学校の校長だった父フョードルの長男として生まれた。この学校の生徒に、のちのレーニンがおり、ケレンスキー家とウリヤノフ家は親しかった。1889年に父が公立学校の監査官に任命され、一家はタシュケントに移った。1899年にサンクトペテルブルク大学に入学して歴史学と言語学を学び、翌年から法学を専攻した。1904年に法学の学位を取って、将軍の娘オリガ・バラノフスカヤと結婚した。弁護士になり、ロシア第一革命の犠牲者の遺族の法律顧問を務めたが、1904年末に武装組織の一員という嫌疑で投獄された。それでも、弁護を通じて世間の高い評判を得た。1912年にトルドヴィキから出馬して第4回ドゥーマ(下院)に当選し、議会ではリベラルで反帝政の立場からニコライ2世の内閣と対峙する雄弁家として知られた。同年、レナ川流域の金鉱で労働者が軍隊に射殺されたレナ虐殺事件が起こると、調査委員会の委員長となり、改革派議員として名を知られた。1916年11月のドゥーマでは、戦線の相次ぐ敗退と、皇帝夫妻に取り入る怪僧ラスプーチンを批判し、閣僚を「雇われの暗殺者」「臆病者」と弾劾した。
1917年3月、二月革命が勃発すると、帝政に反対する最も有名な演説者の一人として、また革命家の擁護者として、ドゥーマの臨時委員会の委員に選ばれ、ペトログラード・ソビエトの副議長にも任じられた。ドゥーマとソビエトの対立が解消しないなかで、ケレンスキーは両方に参加した最初で唯一の人物となった。3月16日に臨時政府が樹立されると、司法大臣として入閣した。政治犯の恩赦やポーランドの独立承認などの決定を主導し、亡命していた革命家たちの帰還を命じた。4月に外務大臣ミリュコーフらが辞任に追い込まれると、陸海軍大臣に就任した。5月から戦争の継続を主張して各地を遊説したが、兵士からは「説得司令官」と揶揄された。ドイツへの大規模な攻勢(ケレンスキー攻勢)を命じたが、当初の成功の後に反撃を受けて失敗し、軍制改革は軍部の反感を買った。7月に七月蜂起が起こり、リヴォフが辞任に追い込まれると、陸海軍大臣のまま首相となった。8月にコルニーロフ将軍がペトログラードへ進軍すると、9月9日に彼を更迭したが、ボリシェヴィキの協力を求めて事態に対処し、クーデターの鎮圧に活躍した彼らが勢力を広げた。9月15日には国号を「ロシア共和国」に改めた。「ロマノフ朝が崩壊すれば戦争は終わる」と考えていた兵士は、「平和、土地、パン」を掲げるボリシェヴィキを支持し、兵力は200万人まで減っていた。
11月5日(旧暦10月24日)に、ボリシェヴィキの印刷所を襲撃させたが、赤軍はすぐに反撃して、主要施設を占領した。翌6日に全面的な蜂起(十月革命)が起こり、ケレンスキーが動員できたのは、「死の大隊」と呼ばれる部隊などにすぎなかった。情勢の不利を悟って冬宮殿を脱出し、彼以外の閣僚は全員逮捕された。ロシアを脱出して亡命し、パリとニューヨークを行き来し、後年はスタンフォード大学のフーヴァー研究所で働いた。
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