伝記
アントニオ・デ・オリヴェイラ・サラザールは、1889年4月28日にポルトガル北部のヴィゼウ県サンタ・コンバ・ダンで生まれ、1970年7月27日に没した政治家、経済学者である。大学教授として名声を得たのち首相となり、ヨーロッパ最長の独裁体制とされる「エスタド・ノヴォ(新国家体制)」を築いた。
小地主の家に、四人の姉の末子で唯一の男子として生まれた。生涯、熱心なカトリック教徒で、11歳から18歳まで神学校で学び、聖職者を目指していたが、リスボンには僧侶が多すぎたため還俗した。コインブラ大学で法学を学び、1916年に経済学の学位を取り、1918年には同大学の政治経済学の教授となった。反カトリック的な共和政府には不満を抱き、新聞に教会の擁護を書いた。この時期には、フランスの王党派の極右団体アクション・フランセーズの影響を受けた。1917年に共和政府から大臣になるよう頼まれたが断り、右派のカトリック中央党から出馬して議員になったが、一期で辞めた。1926年5月のクーデターの後、新政権に加わったが、混乱のため十分な仕事ができないとして、すぐに辞職した。カルモナが大統領となって政情が固まると、1928年に財務大臣に就任し、緊縮財政とデフレ政策で危機的な財政を建て直した。この手腕が評価されて、1932年に首相に昇格した。
独裁体制は右派の連合体で構成されたが、穏健派を登用し、過激派勢力には検閲や抑圧で臨んだ。1933年に新憲法を制定し、「神、祖国、そして家族」を掲げて、エスタド・ノヴォの成立を宣言した。体制の基礎は社会の安定にあり、混乱した第一共和政を見てきた国民には、目覚ましい進歩と受け止められた。教育では高等教育は重視されなかったが、初等教育はすべての国民に与えられ、識字率は西ヨーロッパの最高レベルとなった。同じ1933年、ドイツとイタリアから顧問を招いて秘密警察を創設し、共産主義者や自由主義者、政敵の弾圧にあたらせた。議会制民主主義は敵視され、国民は職能組合に組織されて、教会と伝統的な中間層が支配する体制になった。支持基盤は、カトリック教会、軍部、銀行家、大地主であった。1936年には首相、財務相に加え、外務相、陸軍相、海軍相を兼任した。スペイン内戦では、フランコの反乱軍に武器を援助した。
第二次世界大戦では中立を宣言した。タングステンなどの軍需物資を連合国と枢軸国の双方に輸出して、経済的に安定し、連合国の勢いが増すと、1943年にアゾレス諸島の島を基地として提供した。スペインのフランコは、サラザールを「私が知っている最も尊敬に値する政治家」と称賛した。戦後も反共主義的な体制は存続した。1951年に「植民地」を「海外州」と呼び換えて、非難を避けようとしたが、1960年代に入ると、1961年のアンゴラを皮切りに、各地で独立戦争が始まった。1971年には国家予算中の軍事費が45.9パーセントに達し、植民地戦争は重い負担になった。
1968年8月3日、避暑先の城砦で、愛用の椅子が壊れて頭部を強打した。頭痛を周囲に隠していたが、9月の手術で血栓が見つかり、意識不明に陥った。回復の見込みがなくなると、大統領は後継首相にマルセロ・カエターノを任命した。サラザールは、事実を知らされないまま解任された。約2か月後に意識が回復したが、後遺症で身体が部分的に麻痺し、最近の出来事の記憶を失った。側近たちは、ショックを与えないため、執務室を在任中のままに保ち、偽の新聞を読ませたという。死の約1か月前、家政婦に「私は残酷にクビにされた」と語ったと伝えられる。
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