HISTORICAL PERSON · 1970年没

エドゥアール・ダラディエ

フランスの政治家。3度首相を務め、17の閣僚を経験した。急進社会党の党員で、その風貌から「ヴォクリューズの雄牛」と呼ばれ人気を集めた。

生涯
1970年没
死亡地
フランス共和国(パリ / 16区)
出生地
フランス共和国(カルパントラ)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

エドゥアール・ダラディエは、1884年6月18日にフランス南東部ヴォクリューズ県のカルパントラに、村のパン屋の息子として生まれた政治家である。3度にわたって首相を務め、ミュンヘン会談でミュンヘン協定に調印した人物として知られる。リヨンのデュパルク高等中学で学び、この頃に社会主義の政治に触れた。カルパントラの高校の準備級に通って、歴史地理学の教授資格を最初に取得し、1909年にニームの高等中学の教師になった。1911年には故郷のカルパントラの市長に選ばれた。第一次世界大戦では、1914年8月に30歳で動員されて陸軍に入り、軍曹から出発し、1916年のヴェルダンの戦いで戦功により中尉に昇進した。1917年5月にはレジオン・ドヌール勲章を受け、大尉として中隊を率いて終戦を迎えた。

1919年、急進社会党の党員としてヴォクリューズ県選出の下院議員となった。太い首と大きな肩、決然とした顔つきから「ヴォクリューズの雄牛」と呼ばれて人気を集めたが、その角はカタツムリのようだと皮肉る者もいた。1924年にエリオ内閣に植民地相として入閣して以来、急進社会党が参加する連立内閣に7度入閣している。党内では左派の中心人物となり、党を近代的な政党に育てた。1933年にルブラン大統領のもとで初めて首相に就任したが、内閣は9か月で倒れた。1934年、スタヴィスキー事件の混乱でショータン内閣が倒れると後任の首相に選ばれたが、2月6日の大規模なデモで死者が出た責任を取り、わずか10日で辞職した。1936年に急進社会党党首となり、ブルムの人民戦線内閣の国防大臣に就いたが、急進社会党と共産党の対立が、1937年の内閣崩壊を招いた。1938年に3度目の首相となった。

1938年9月24日、ドイツがチェコスロバキアにズデーテン地方の割譲を要求すると、ダラディエは相互援助条約に基づいて軍に総動員令を出した。9月29日に英仏独伊の首脳がミュンヘンに集まり、宥和政策に基づいてイギリスと協調し、ズデーテン地方などの割譲を認めるミュンヘン協定に調印した。各国の動員は解除され、帰国した彼は、世界大戦を回避した首相として国民に熱狂的に迎えられた。しかしこのとき、補佐官に「この連中は正気ではない」と語ったという。彼自身はドイツへの不信から宥和政策に懐疑的だったが、国防相の経験から、フランス軍がまだドイツ軍と戦える状態にないと知っており、軍の体勢が整うまでの猶予を得るために、やむを得ず宥和を進めたとされる。

1939年9月3日、イギリスとともにドイツに宣戦布告したが、フランス軍はドイツ領への攻撃に消極的で、「奇妙な戦争」と呼ばれた。冬戦争ではフィンランドを支援できず、議会の批判が高まり、1940年3月21日に内閣は総辞職してレノーが後任の首相となった。ダラディエは国防相として入閣したが、5月20日に外相に回された。6月にフランスが降伏するとモロッコに逃れたが、8月に逮捕された。1942年にヴィシー政権の裁判にかけられたが、判決の前に中止された。1943年にブルムとともにドイツへ連行され、ブーヘンヴァルト強制収容所に収容され、のちにチロルのイッター城に移された。1945年5月に救出され、戦後は下院議員を務め、1953年から1958年までアヴィニョン市長を務めた。ド・ゴールの第五共和政の成立には反対した。1970年10月10日にパリで死去した。

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