伝記
ヒャルマル・シャハトは、1877年1月22日に当時プロイセン王国のシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州に属していた町で生まれたドイツの経済学者、銀行家、政治家である。ライヒスバンク総裁を2度務め、ヒトラー政権の経済相となった。父ヴィルヘルムは1870年代前半に妻とアメリカへ移住して市民権を得た人物で、アメリカのジャーナリズムの先進性に感銘を受け、息子の名もアメリカのジャーナリスト、ホレス・グリーリーにちなんでつけた。しかし定職を得られず、1876年の秋にドイツへ帰国した。母は男爵令嬢だった。1895年から1899年にかけて、キール、ベルリン、ミュンヘンなどの大学で経済学を学んだ。ミュンヘン大学でルヨ・ブレンターノの講義を聴いたことが、経済学に興味を抱いたきっかけだった。博士論文「イギリス重商主義理論小史」で1899年に学位を得た。この論文はシュモラーに高く評価され、出版を勧められて1900年に刊行され、日本では1963年に翻訳された。
1903年にドレスナー銀行に入って経済室長となり、同年にルイーゼ・ゾーアと結婚して、1908年には副頭取となった。1916年にはドイツ国家銀行の頭取となった。第一次世界大戦後の1918年にはドイツ民主党の共同創設者となり、1922年にはダルムシュタット銀行との合併でダナート銀行を設立した。1923年1月、フランス軍とベルギー軍が賠償金の不履行を理由にルール地方を占領すると、ドイツは消極的抵抗で対抗したが、その影響でマルクは暴落してハイパーインフレとなった。同年8月にシュトレーゼマン内閣ができると、シャハトは民主党内でレンテンマルクの発行を主張した。1923年11月13日にエーベルト大統領からライヒ通貨委員に任命され、11月20日から1兆マルクが1レンテンマルクで交換されて、マルクの信用は奇跡的に回復した。12月22日には、空席となっていたライヒスバンク総裁に任じられ、イングランド銀行総裁ノーマンに接近して、ドーズ案の交渉に参加した。
1926年に民主党を離れて右派と接近し、1929年のヤング案の専門家会議ではドイツの首席代表を務めた。会議では独断的に行動し、植民地やポーランド回廊の返還を条件に入れて、決裂しかけたこともある。結局6月7日にヤング案を受け入れた。世界恐慌が起きると、外債の発行に反対し、1930年3月7日にヤング案への反対を理由にライヒスバンク総裁を辞した。その後ナチ党に近づき、1931年2月3日にヒトラーと初めて会談した。友人の銀行家や実業家をヒトラーに紹介して活動資金の確保に尽力し、1932年11月には、財界人らと連名で、ヒトラーを首相にするようヒンデンブルク大統領に要請する書簡を送った。
1933年3月16日に再びライヒスバンク総裁となり、1934年8月には経済相に任命された。再軍備の資金をひそかに調達するため、1933年6月にメフォ手形を導入した。彼は反ユダヤ主義を好まず、彼が経済相であった間は「アーリア化」は徹底されなかった。1937年1月にナチ党に入党したが、四カ年計画をはじめたゲーリングと対立し、同年11月に経済相を解任された。1939年1月に、軍事費の増大がインフレを招くとしてヒトラーに手紙を送り、同月19日にライヒスバンク総裁からも解任された。1943年1月には無任所相の地位も失った。1970年6月3日に没した。
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