伝記
アンドレア・デル・ヴェロッキオは、1435年ごろにフィレンツェの聖アンブロージョ教会地区で生まれた、ルネサンス期の画家、彫刻家、建築家、鋳造家、金細工師である。本名はアンドレア・ディ・ミケーレ・ディ・フランチェスコ・チオーニといい、父はレンガ職人で後に税務官となった。貧しい家庭の長男として、弟や妹を養わなければならなかったという。生涯独身を貫いた。記録に名が最初に現れるのは傷害致死事件で、1452年に仲間との喧嘩で羊毛職人の頭に石を投げて死なせたが、過失とされて無罪となった。
修業時代の師弟関係は確実なことが分からず、推測に頼るほかない。ヴァザーリはベルナルド・ロッセッリーノの見習いとしてレオナルド・ブルーニの墓碑の制作に加わったと伝えるが、1457年の資産報告書では自ら金細工師を名乗り、仕事がなく困窮していると訴えている。1461年にはオルヴィエート大聖堂の祭壇彫刻のコンクールに応募して落選したが、1460年代後半には仕事が次々と舞い込むようになった。1466年には商業裁判所の評議会から、オルサンミケーレ聖堂のブロンズ群像「聖トマスの懐疑」を注文され、キリスト像は1479年に完成し、1483年6月に設置された。ヴァザーリはこの作品を絶賛している。「デル・ヴェロッキオ」の名は1467年から記録に現れ、初期の後援者ヴェロッキオ家に由来するとされるが、諸説ある。1468年から71年にはフィレンツェ大聖堂のクーポラの頂に据える円球と十字架を制作し、弟子のレオナルド・ダ・ヴィンチも携わったようだとされる。
彼はコジモ、ピエロ、ロレンツォと3代のメディチ家の支援を受けた。現存する最初の作品はコジモの床の墓標で、ピエロは「聖トマスの懐疑」の発注に関わる評議会員であり、円球制作でも支払いの代理人を務めた。1472年から75年にかけてはサン・サルヴィ修道院の依頼で「キリストの洗礼」を制作し、レオナルドに天使や背景を描かせたという。全体の構図と主要人物の下絵はヴェロッキオが決めたと考えられ、これを見て驚いた彼が絵筆を折ったという逸話は厳密には誤りで、実際には絵画の制作を弟子に任せて彫刻に専念したにすぎないとされる。工房には有望な若い芸術家が集まり、ペルジーノ、ギルランダイオ、ボッティチーニなども彼の弟子や協力者に数えられ、ペルジーノは後にラファエロを、ギルランダイオはミケランジェロを弟子に迎えた。ヴェロッキオは教育者としても第一人者だった。
1479年、ヴェネツィア政府は傭兵隊長コッレオーニのブロンズ騎馬像の建立を決め、ヴェロッキオは1481年に馬の原寸大の試作を送り、1483年には蝋製の試作も送って制作を任されることとなった。1486年にヴェネツィアへ移住して本格的な制作に入ったが、ヴァザーリによれば鋳造の途中で急病に倒れ、1488年6月30日に世を去った。死の5日前の遺書で鋳造は弟子のロレンツォ・ディ・クレディに託されたが、像は最終的にヴェネツィアの芸術家アレッサンドロ・レオパルディが完成させ、1496年3月にサン・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会の広場に設置された。遺体はクレディによってフィレンツェへ移され、聖アンブロージョ教会に葬られた。未完だった「聖母と洗礼者ヨハネ」などもクレディが完成させ、彼はヴェロッキオの管財人で、筆頭の遺産相続人でもあった。
同じ年に亡くなった人物
- アルヴィーゼ・ダ・カダモスト (1488年没)
- ボーロマトライローカナート (1488年没)
- ニコラ・シュケー (1488年)
- Al-Mu'ayyad Shihab al-Din Ahmad (1488年)
- ジャン2世 (ブルボン公) (1488年没)
同じ地域に関係する人物
- ニコラ・ジャンソン (1480年没)
- セルゲイ・ディアギレフ (1929年没)
- ジャンバッティスタ・ピットーニ (1767年没)
- アレクサンダー・ドライショク (1869年没)
- アゴスティーノ・バルバリーゴ (1501年没)