伝記
フリュギアのモンタノスは、2世紀のキリスト教の預言者で、モンタノス派(モンタニズム)の創始者である。聖霊の働きを強調し、その点で大教会とは一線を画した。生まれた年も死んだ年も分かっておらず、生涯の伝記は断片的で、その多くを反対者の記述から知るほかない。
モンタノスはもと異教の司祭だったとされ、フリュギアで広く信仰されたキュベレ信仰の司祭だったともいわれる。ただし、これは彼の評価を貶めるための主張だった可能性が高いとされる。キリスト教に改宗した後の新参者として語られ、フリュギアのアルダバウという村(ミュシアの村ともいわれ、所在ははっきりしない)で預言を始めたとされる。預言の開始時期は、エピファニオスによれば157年ごろ、カイサリアのエウセビオスによれば171年ごろで、教父たちの記述は食い違っており、157年から172年のあいだとも言われる。エウセビオスは、運動が177年から広まったと述べる。もっとも、運動は170年代の初めにはすでにローマにあったらしく、ローマ司教の一人、おそらくエレウテルスが「新しい預言」を好意的に受け止めたようだという。
モンタノスは恍惚の状態で預言を語り、自らを「パラクレートスの器」と称した。反対者の中には、彼が自分自身をパラクレートスだと主張したとする者もいた。聖霊の時代の到来と終末の近さを告げ、神の都である新エルサレムが天から降りてくるのは、ペプザとティミオンの近くだと説いた。この二つの地の位置は特定が難しいが、のちの世紀まで信者の聖地となった。信者は「ペプザ派」と呼ばれることもあった。彼は、イエスが弟子に清貧の宣教を命じたとおり、最小限の持ち物で各地を巡り、説教と病人の癒しを行ったと説明される。そこには、定住を捨てた巡回の生活があった。
モンタノスは、プリスカ(プリスキラ、あるいはクィンティラとも)とマクシミラという二人の女預言者を伴い、彼女らも陶酔のうちに預言した。教えとしては、再婚を認めず一度だけ結婚するべきこと、霊的な理由で結婚を捨てることは許されること、真のキリスト者は目に見える霊の賜物を持つべきこと、殉教を勧め逃げることは悪いこと、預言者は罪を赦せること、背教者・殺人者・姦淫者を教会は決して受け入れないことなどが挙げられる。神学の形式主義に反対し、道徳を強く重んじた。断食も重ねた。二人の女預言者の存在が示すように、運動の中で女性の占める位置は大きかったらしい。
運動の初めには、形成途上の教会の位階制度に反対する姿勢は見えなかったが、しだいに共同体の指導者の統制を拒むようになった。激しい熱狂を警戒する批判者がいる一方、教皇エレウテルス、リヨンのエイレナイオス、テルトゥリアヌスのような支持者もいた。のちのモンタノス派の運動は主に東方で発展し、エピファニオスの時代にも、フリュギア、ガラテヤ、カッパドキア、キリキアなどに信者が多く、コンスタンティノポリスにも信者がいた。モンタノスの死については、ユダのように首をつって死んだという話をする論者もいたが、反対者自身も疑わしい噂だと認めていた。モンタノスとマルキオンの影響は、初期の教会が新約聖書の正典を整えはじめる動きを促したとされる。モンタノスは他の教会の神学者から異端として激しく攻撃された。一方、テルトゥリアヌスはモンタノス派を受け入れたとよくいわれる。「モンタノス派」という呼び名自体、反対者がつけたものとされる。