伝記
ポリュカルポスは、2世紀にスミルナの主教(司教、監督)を務めた人物である。名は「実り豊かな」という意味のギリシア語に由来する。生年は69年頃とも81年頃ともいわれ、没年は155年頃とされるが、155年か167年かで議論が続いている。確かな年代の手がかりとして残るのは、殉教の記録にある「86歳で亡くなった」という記述だけである。若い頃や壮年期の大部分は分かっていない。『ポリュカルポス伝』という伝記もあるが、後世に書かれた小説的な作品で、伝記として得られるものはほとんどない。
彼は「ヨハネの弟子であった」と記録される。このヨハネは、使徒ヨハネ、長老ヨハネ、福音記者ヨハネと同一視されてきた。リヨンのエイレナイオスは、自らをポリュカルポスの弟子と称し、ポリュカルポスが「ヨハネ」と呼ぶ人物と交わりをもったと述べる。エイレナイオスはこの人物を福音記者ヨハネと考えたが、ポリュカルポスと同時代人のパピアスが使徒と明確に区別した長老ヨハネであった可能性のほうが高いとされる。ヨハネの弟子だという伝承は古いが疑わしい。ヨハネがパトモス島の流刑を終えてエフェソスに定住したのは、96年のドミティアヌス帝の死後とされるが、そのとき彼は167年没説なら15歳、155年没説なら27歳で、弟子という話が成り立つのは後者の場合に限られる。いつスミルナの主教になったのか、前任者が誰かも定かではない。
それでも彼は当時最も影響力があり、尊敬された主教の一人となった。154年にはアジアの諸教会の代表に選ばれ、160年頃にローマへ送られて教皇アニケトゥスと、復活祭の日取りをはじめとする相違点を話し合ったという。復活祭の日取りは、すでに東方と西方の教会の争いの種だった。二人は合意に至らないまま、しかし友好のうちに別れた。彼は異端とも戦い、グノーシス派のウァレンティノスやマルキオンに反対した。とくにマルキオンに出会った折には、「サタンの長子」と呼んだと伝わる。
ローマのクレメンス、アンティオキアのイグナティオスと共に、3人の使徒教父の一人に数えられる。彼が書いた「ピリピ教会への手紙」が残されている。ピリピの人々の求めに応じ、イグナティオスの手紙に自らの勧めの手紙を添えて送ったとされる。ポリュカルポスがスミルナでイグナティオスを迎えて親交を結んだという伝承も、1979年以降強く疑われている。さらに、イグナティオスの手紙は、1970年代以降、偽作とみる研究者も多く、このいきさつには疑いがある。神学的には、「わたしたちの主イエス・キリストの神また父、および神のみ子イエス・キリスト自身が、あなた方を信仰と真理において築き上げてくださいますように」と書き、神を「イエスの神」と呼んだ。
後世の伝説は、彼がガリアへ4人の弟子を送ったと語るが、歴史的な根拠はない。彼は86歳で殉教者として世を去った。火刑にされたが、火では死なず、刺し殺されたと伝えられる。一方、生きたまま焼かれて没したとする伝えもある。東方諸教会、正教会、ローマ・カトリック教会、聖公会、ルーテル教会で聖人とされ、日本正教会ではポリカルプと転写される。
同じ年に亡くなった人物
- ピウス1世 (ローマ教皇) (155年没)
同じ地域に関係する人物
- ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス (1254年没)
- アレクサンドロス1世バラス (紀元前145年没)
- エウメネス1世 (紀元前241年没)
- パラシオス (紀元前460)
- Muhsin Ertugrul (1979年没)