伝記
マリア・ゲッパート=メイヤーは一九〇六年、当時ドイツ帝国領だったオーバーシュレジエンのカトヴィッツに生まれた。一九一〇年、父がゲッティンゲン大学の小児科教授となり、一家はゲッティンゲンへ移った。大学の教員や研究者が身近にいる環境で育ち、当時の大学にはフェルミ、ハイゼンベルク、ディラック、パウリらの物理学者もいた。本人も同大学に進学した。彼女は一人娘で、一九二一年に女子の大学進学を準備する私立学校へ入り、十七歳で大学入学資格試験に合格した。一九二四年、ゲッティンゲン大学で数学を学び始めたが、マックス・ボルンの量子力学のゼミに接して物理学へ進み、ボルンの指導を受けた。イギリスのケンブリッジ大学で一年学んでからゲッティンゲンに戻った。数学は人間の思考が作る問題を扱い、物理学は自然が生む問題を扱うという趣旨の言葉を残している。一九三〇年、物理学者ジョゼフ・エドワード・メイヤーと結婚し、夫の出身国であるアメリカへ移住した。同年にまとめた博士論文では、原子による二光子吸収の可能性を理論的に扱った。ゲッティンゲン大学で博士号を得た彼女の論文審査には、ボルン、ジェームズ・フランク、アドルフ・ウィンダウスが加わり、三人ともノーベル賞の受賞者であった。
一九三一年から一九三九年までボルチモアのジョンズ・ホプキンス大学で働いた。夫が同大学の教員だったため、縁故採用を禁じる規則により教員職に就けず、助手として研究を続けた。一九三五年には二重ベータ崩壊についての論文を発表した。一九三九年にコロンビア大学へ移り、当初は無給の職位に就き、一九四六年まで研究員を務めた。サラ・ローレンス大学で教え、一九四六年にはシカゴ大学の講師から准教授となり、同大学でも講義と研究を行った。ロスアラモス国立研究所を訪れることもあり、アルゴンヌ国立研究所の研究員も務めた。こうした時期に原子核の構造を研究し、核殻模型と、原子核の安定性に関わる「魔法数」について成果をまとめた。ドイツの物理学者ハンス・イェンゼンも同じ主題を研究しており、二人は核殻構造の理論を共著として刊行した。博士論文の二光子吸収理論は、当時は実験で確かめることが難しいと考えられていたが、一九六〇年代にレーザーが開発されると実験による検証が可能になった。二光子吸収の断面積を示す単位には、彼女の名が付けられている。
一九五三年には東京と京都で開かれた国際理論物理学会に出席するため来日した。一九六〇年、カリフォルニア大学サンディエゴ校の物理学専任教授に就任した。サンディエゴに着いて間もなく脳卒中を患ったが、その後も数年にわたって教え、研究を続けた。原子核の殻模型を提案した業績により、一九六三年、イェンゼンらとノーベル物理学賞を受賞した。同年はユージン・ウィグナーも同賞を受けた。女性の物理学者が同賞を受けたのはマリ・キュリーに続く二人目であった。一九六五年にはアメリカ芸術科学アカデミーの会員に選ばれた。
一九七二年二月二十日、心臓発作のため死去した。死後、アメリカ物理学会は女性物理学者に贈る賞を創設し、彼女の名を冠した。女性物理学者の初期キャリアを対象とするマリア・ゲッパート=メイヤー賞は一九八六年に設けられた。
同じ年に亡くなった人物
- ルエラ・パーソンズ (1972年没)
- ギーター・ダット (1972年没)
- ピエール・ブラッスール (1972年没)
- エドガー・スノー (1972年没)
- マーガレット・ラザフォード (1972年没)
同じ地域に関係する人物
- クラレンス・ウィリアムズ3世 (2021年没)
- ポール・ウォーカー (2013年没)
- Frank Lubin (1999年没)
- エド・ローター (2013年没)
- ヨーン・ミカエルソン (1987年没)