伝記
モーリス・シュヴァリエは一八八八年、パリ二十区のベルヴィルまたはメニルモンタン付近に生まれた。父はアルコール依存症で、母が働いて家計を支えたため、貧しい家庭で育った。十歳のとき、アクロバット芸人として舞台に立ち始めた。その後、カジノ・ド・トゥルネルで当時の有名俳優の物真似をし、週給十フランを得た。一九〇四年にはエデン・コールセンに出演して日給十二フランを受け取り、ブリュッセルのスカラ座へ移ると日給二十フランの芸人となった。一九〇七年、エルドラドでアンリ・クリスティ作詞のシャンソン「美少年」を歌った。
一九〇八年、フォリー・ベルジェールの舞台でミスタンゲットと共演した。二人は恋愛関係となり、交際は十年近く続いた。一九一〇年ごろから映画にも端役で出演し、一九一三年には徴兵猶予が終わって軍隊に入った。翌年には舞台作品を映画化した作品で再びミスタンゲットと共演したが、第一次世界大戦の勃発により前線へ送られた。戦闘中に負傷し、ドイツ中部のアルテン=クラボウにある捕虜収容所へ移された。約二年間の捕虜生活で英語を学び、一九一六年にスペイン王アルフォンソ十三世の介入で釈放された。一九一七年にはパリのカジノ・ド・パリでスターとなり、イギリス兵やアメリカ兵の前でも公演した。ジャズとラグタイムに触れ、その後ロンドンに渡ってパレス劇場で新たな成功を得た。戦後、ミュージックホールの舞台に戻り、主に舞台を中心に活動した。その評判は国外にも広がり、フランスを代表する寄席芸人の一人となった。
米国を巡業し、作曲家ジョージ・ガーシュウィン、アーヴィング・バーリンと会い、オペレッタ『デデ』を一九二二年にブロードウェイで上演した。一九二六年にはブーフ・パリジャンの踊り子イヴォンヌ・ヴァレと結婚した。ヴァレは神経衰弱に陥っていたシュヴァリエを看病しており、結婚には母の勧めもあったという。一九二七年には夫婦で舞台に立った。一九二八年、ハリウッドに招かれ、翌年には『レビューの巴里っ子』と『ラヴ・パレード』に出演した。パリジャンらしい洗練された身のこなしで人気を得、やがて世界で最も出演料の高いスターとなった。その後もエルンスト・ルビッチ監督の『陽気な中尉さん』『君とひととき』『メリイ・ウィドウ』などに出演し、ジャネット・マクドナルドと共演した。一九三六年にはフランス映画にも出演し、カジノ・ド・パリの舞台でシャンソンを歌った。また、エディット・ピアフをはじめとする若い歌手たちに活動の場を与えた。
第二次世界大戦後はルネ・クレール監督の『沈黙は金』に出演した。一九五〇年には芸歴五十年に及ぶ活動を振り返るワンマンショーをヴァリテ座で開き、成功を収めた。一九五七年からアメリカ映画にも再び出演し、『昼下りの情事』ではゲイリー・クーパー、オードリー・ヘプバーンらと共演した。一九五八年のミュージカル『恋の手ほどき』にも出演し、アカデミー名誉賞を受けた。一九六八年、八十歳を迎える年にパリで引退リサイタルを開き、七十年に及んだ芸能活動に幕を下ろした。映画界での最後の仕事は、アニメーション映画『おしゃれキャット』の主題歌を歌うことだった。その後はパリ郊外の別荘で過ごし、一九七二年一月一日に八十三歳で死去した。
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