伝記
アンドレーイ・トゥーポレフは一八八八年、ロシア帝国のプストマゾヴォに生まれた。父は公証人で、家は七人きょうだいの一家だった。トヴェリのギムナジウムを一九〇八年に終え、モスクワの帝立工科学校に進んだ。航空を扱う学生の集まりに加わり、ロシアの航空研究を進めていたジューコフスキーのもとで空気力学を学んだ。仲間と滑空機を製作して試験飛行を行い、風洞も作った。この風洞は学校に空気力学の実験室が設けられるきっかけとなった。革命運動への関与を疑われて一九一一年に逮捕され、故郷へ戻る条件で釈放されたため、学業を中断した。再び学校に戻ったのは一九一四年で、戦争と革命の時期をはさみ、一九一八年に水上機の開発を扱った論文を提出して技師としての学位を得た。その後は学校で空気力学計算の基礎を教えた。
一九二九年から亡くなるまで、モスクワの中央空気流体力学研究所を拠点に航空機の開発を行った。一九二五年に双発爆撃機を設計し、当時先進的な機体と見なされた。設計では金属製の機体構造を取り入れ、爆撃機や旅客機の開発を進めた。一九三四年には、翼幅六十三メートル、八基のエンジンを備えた大型機の設計を率いた。これは当時飛行していた機体のうち最大とされた。初期の双発爆撃機を発展させた四発機は一九三七年に北極点へ着陸している。設計に携われる技術者が増えると、自らの設計部門を設けた。
大粛清のさなかの一九三七年、トゥーポレフは破壊活動やスパイ行為などの容疑で逮捕された。研究所の同僚や幹部も拘束され、何人もが処刑されたが、トゥーポレフ自身は収監されたまま航空機設計を続けた。航空技術者らを収容して設計に従事させる施設へ移され、一九四〇年には有罪判決と十年の刑を受けた。その間に開発したTu-2は、第二次世界大戦で重要な爆撃機となった。一九四五年には鹵獲された米国の大型爆撃機をもとに、ソ連の爆撃機Tu-4を設計した。戦後は、Tu-4を発展させた四発ターボプロップ機Tu-95や、双発ジェット機Tu-16を開発した。スターリンの死後に釈放され、設計局での仕事に復帰した。トゥーポレフが設計または設計を監督した機種は、民間用と軍用を合わせて百を超え、いくつかは合計七十八の世界記録を樹立したとされる。
フルシチョフ政権期にはソ連政府の支援を受け、実用ジェット旅客機Tu-104を開発した。この機体は米国の同種機に先んじて登場したとされる。一九六四年にフルシチョフが失脚し、ブレジネフ体制へ移る頃には高齢となり、設計の第一線から徐々に退いたが、超音速輸送機Tu-144や三発旅客機Tu-154の開発にも関わった。構想から試験飛行までを速く進め、試験で見つかった問題を大胆に直していくのが設計の特徴だったと伝えられる。初期設計を修正する膨大な作業も迅速にこなし、第一線を退いた後も後進の主任技術者らにしばしば鋭い問題提起を行い、業界関係者から畏怖の念を持って見られていたという。ソ連では社会主義労働英雄の称号を三度受け、レーニン勲章も八度授与された。一九七二年十二月二十三日に没し、モスクワのノヴォデーヴィチ墓地に葬られた。息子も航空機設計者となった。
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