伝記
ジローラモ・サヴォナローラは、1452年9月21日にフェラーラの中流階級の家に生まれたドミニコ会の修道士である。父ニッコロ・ディ・ミケーレと母エレナの間の7人の子の3番目だった。祖父ミケーレ・サヴォナローラは名高い内科医で博学者であり、一家は祖父の医業でかなりの富を築いた。叔父のミケーレも占星術師として知られた。祖父が孫の教育を見守り、その跡を継ぐため、フェラーラ大学で芸術学の学位を取って医学校に進む準備をしていたが、どこかの時点で進路を捨てた。早い時期の詩には教会と世の状態への関心が現れ、1472年の「世界の破滅について」、1475年の「教会の破滅について」などの黙示録的な詩を書き、ローマ教皇庁を厳しく非難している。
ファエンツァで聞いた説教が、世を捨てる決心の元になったと後に語っている。1475年4月25日、ボローニャのサン・ドメニコ修道院の門を叩いて入会を願い、父への別れの手紙では、キリストの騎士になりたいと述べた。聖書やアウグスティヌス、トマス・アクィナスを学び、説教の練習を重ねた。1482年にフィレンツェのサン・マルコ修道院に移り、のちに修道院長となる。説教壇から、フィレンツェの腐敗やメディチ家の実質的な独裁を激烈な言葉で批判し、信仰に立ち返るよう訴えて市民を感激させた。その著作がフィレンツェの印刷業者に次々と印刷されたことも、支持が広がった背景とされる。ロレンツォ・デ・メディチが死の間際の1492年に彼を招いて罪を告白したとも言われるが、捏造ともされる。
1494年にフランス王シャルル8世がイタリアへ侵攻すると、その到来を予言していたとして信望が高まった。メディチ家は対応を誤って追放され、サヴォナローラは共和国の政治顧問として影響力を強め、以後は神権政治が行われた。彼はフィレンツェを世界のキリスト教の中心となる新しいエルサレムにすると唱え、若者の協力も得て厳格な道徳運動を進めた。1497年2月7日にはシニョリーア広場で、博打の道具、化粧品、華美な衣服、卑猥な書物などを集めて焼く「虚栄の焼却」が行われ、画家ボッティチェッリも彼の影響で華美な絵を描くのをやめたという。1495年、フィレンツェが教皇アレクサンデル6世の神聖同盟への参加を拒むと、教皇庁は彼をローマへ召喚したが、従わず、禁令の下でも説教を続けた。教会の改革を主張して教皇と対立した末、1497年に破門された。禁欲的な姿勢にフィレンツェの民衆の不満も高まり、民心は次第に離れた。
1498年、対立するフランチェスコ会修道士から、預言者なら火の中を歩いても焼けないはずだとして「火の試練」を挑まれた。4月7日の当日、フランチェスコ会側が怖気づいて対決は行われず、奇跡を期待していた民衆は失望し、暴徒となってサン・マルコ修道院に押し寄せた。翌8日に共和国は彼を拘束し、激しい拷問が加えられた。5月23日、異端の罪により、弟子のドメニコとシルヴェストロとともに絞首ののち火刑に処された。遺骨はアルノ川に投げ捨てられた。彼はウィクリフ、フスとともに宗教改革の先駆者と見なされ、ルターも、その記憶は祝福されていると述べたという。
同じ年に亡くなった人物
- ジョン・カボット (1498年没)
- フランチェスコ・ボッティチーニ (1498年(推定))
- Vespasiano da Bisticci (1498年)
- Julius Pomponius Laetus (1498年(推定))
- An-Nasir Muhammad ibn Qaitbay (1498年)
同じ地域に関係する人物
- ドメニコ・ディ・ミケリーノ (1491年没)
- ドナテッロ (1466年没)
- イレーネ・ディ・グレチア (1974年没)
- エヴァンジェリスタ・トリチェリ (1647年没)
- ギーゼラ・フォン・アルニム (1889年没)