伝記
ジャック・ルーズベルト・ロビンソンは、1919年1月31日にジョージア州カイロで、五人きょうだいの末っ子として生まれたアメリカのプロ野球選手である。祖父はアフリカから連れてこられた奴隷だった。生後6か月のころに父が家を出たため、カリフォルニア州パサデナへ移り、母はメイドとして働いたが、週8ドルの収入では家族を養えず、生活保護を受けた。兄のマシューは1936年のベルリンオリンピックの200メートル走で銀メダルを獲得した。ロビンソンもスポーツ選手として頭角を現し、アメリカンフットボール、バスケットボール、野球、陸上の4種目で奨学金を受けて高校へ進んだ。1937年にパサディナ短期大学へ進み、1938年には午前に走り幅跳びで優勝し、午後に野球の試合に出場して優勝することもあった。多くの大学から奨学金を提示されたが、自宅から通えることを理由に、1939年からカリフォルニア大学ロサンゼルス校に進学した。ここで将来の妻となるレイチェルと出会い、黒人が仕事に就くのに学問は役に立たないと考えて、母やレイチェルの反対を押し切り、1941年3月に大学を去った。
第二次世界大戦で徴兵され、1942年にカンザス州で訓練を受けた。幹部候補生学校の入学を長く待たされたが、ボクシングのヘビー級王者ジョー・ルイスが政府の権力者に訴えたことで入学を許され、1943年に少尉となった。1944年にテキサス州のフォートフッドへ配置転換されたのち、バスで白人の運転手から黒人用の座席へ移るよう命じられた。陸軍ではバスの中での人種隔離が禁じられていたため、これを拒否し、軍法会議にかけられたが、9人の裁判官全員が無罪とした。同年11月に名誉除隊となった。1945年にニグロリーグのカンザスシティ・モナークスに入団し、ボストン・レッドソックスのトライアウトも受けたが契約には至らなかった。
1945年にブルックリン・ドジャースの会長ブランチ・リッキーに誘われた。リッキーがロビンソンに最も求めたのは、差別を受けたときに「やり返さない勇気を持つ」ことだったという。リッキーは「君は偉大なプレーヤーであるばかりか、立派な紳士でなければならない」と言って、右の頬を殴り、ロビンソンは「頬はもう一つあります」と答えたと伝えられる。8月にドジャース傘下のAAA級モントリオール・ロイヤルズに入団し、1946年2月にレイチェルと結婚した。この年のインターナショナルリーグで打率3割4分9厘、113打点とリーグ1位の成績を残し、チームを優勝に導いた。1947年4月15日、アフリカ系アメリカ人のメジャーリーガーとしては、1884年のモーゼス・フリート・ウォーカー以来63年ぶりにメジャーデビューを果たした。オーナー会議ではドジャースを除く全球団が反対し、フィリーズは出場するなら対戦を拒否すると通告したが、コミッショナーはドジャースを支持した。ロビンソンは常に紳士的にふるまい、シーズン終了時にはチームメイトや監督、報道陣に受け入れられ、チームの優勝に貢献して、この年に制定された新人王を受賞した。
1949年には打率3割4分2厘、37盗塁で首位打者と盗塁王に輝き、MVPに選ばれた。この年からオールスターゲームに6年連続で出場し、同じ年から6年連続で3割を達成した。1949年7月には、ポール・ロブスンの発言をめぐって下院の非米活動委員会の場で証言した。1950年代には球団のフロントとのトラブルを抱え、攻撃的だと批判もされた。1972年10月24日に亡くなった。背番号42は、メジャーリーグの全球団共通の永久欠番となっている。
同じ年に亡くなった人物
- エルンスト・フィッシャー (1972年没)
- Per Bertilsson (1972年没)
- エルヴィン・シュトレーゼマン (1972年没)
- クワメ・エンクルマ (1972年没)
- パウル・ツィンナー (1972年没)
同じ地域に関係する人物
- アブラハム・ロビンソン (1974年没)
- ミロス・フォアマン (2018年没)
- リンディ・レミギノ (2018年没)
- ジャック・トラウト (2017年没)
- サンディ・デニス (1992年没)