伝記
ミール・アリー・シール・ナヴァーイーは、1441年2月9日に生まれ、1501年1月3日に没したティムール朝の政治家・詩人である。チャガタイ語による詩作を好み、チャガタイ文学の確立者と見なされている。チャガタイ語を文章語として確立した功績から、ウズベキスタンではソビエト連邦からの独立前から高い評価を受けてきた。
1441年、ホラーサーン地方のヘラートで、ティムール朝の官吏ギヤースッディーン・キチュチネの子として生まれた。ティムール朝の王族フサイン・バイカラの乳兄弟として育ち、4、5歳のころにヘラートの私塾に通って、アラビア語とペルシア語を学び、サアディーの詩を暗記した。同じ私塾で学んだフサインとは、大人になって成功を収めた方がもう一人を助けるという誓いを立てたと伝えられる。1447年に王シャー・ルフが没すると、混乱を避けて一家はヘラートから退避した。二人はヘラートを本拠とする王族アブル・カースィム・バーブルに仕えたが、1457年にその王族が没すると、ナヴァーイーはマシュハドに移った。1464年に一旦ヘラートに戻ったのち、サマルカンドに移り、多くの学者や文人と交わった。1469年にフサインがヘラートで政権を樹立すると、その宮廷に出仕した。
宮廷ではナヴァーイーは印璽官を務め、1472年にアミールの地位を授けられた。多くの財産を有しながら家族を持たず、フサインや他の高官に金品を贈り、私費を投じて福利施設を建てた。ホラーサーンで約370のモスク、マドラサ、図書館、病院、隊商宿などを創設・修復・寄進したと伝えられ、ヘラートだけでも隊商宿40、モスク17、浴場9、橋9などに関わったという。他の政治家の悪政や腐敗を厳しく弾劾したため、フサインの側近と対立した。かつて保護を与えていた政治家ホージャ・マジュド・アッディーン・ムハンマドは、ナヴァーイーの意見を聞き入れず、しばしばフサインの前で中傷した。1487年にアスタラーバードの長官として赴任したが、フサインにはマジュドに財政を委任させる意図があった。1488年に無許可でヘラートに戻り、辞職を願い出たが許可されず、アスタラーバードに帰還している。1489年以降は官職を保持しなかったものの、政界でなお影響力を保ち続けた。
1498年頃にメッカ巡礼を願い出たが、フサインから治安の悪化を理由に延期を勧められた。1500年12月末、反乱の鎮圧から帰還したフサインをヘラート郊外で出迎えたが、馬から降りた後は一人で歩けず、2人の家臣に支えられて近づき、フサインの手に口づけをして倒れ込んだ。ヘラートへ運ばれて瀉血を施されたが効果はなく、1501年1月3日に没した。盛大な葬儀が行われ、フサインはその自宅に3日留まって喪に服した。
チャガタイ語の詩には「ナヴァーイー」(美しい旋律の意)の筆名を、ペルシア語の詩には「ファーニー」の筆名を使い分けた。チャガタイ語とペルシア語を比べ、前者は簡潔で創造性に富み、後者は洗練された思索に適するとそれぞれの長所を説き、文章語としてのチャガタイ語の優位を主張した。人生の四つの時期に応じて編集した詩集『意味の宝庫』や、五部構成の長編叙事詩『五部作』、『鳥の言葉』などを残し、学者や文人の保護者としても、ヘラートの文化の隆盛に大きな役割を果たした。画家ビフザードらが援助を受けたとされ、ジャーミーとも交流があった。作品はオスマン帝国の宮廷でも愛読され、タシュケントのオペラ劇場はナヴァーイー劇場と呼ばれている。
同じ年に亡くなった人物
- コンスタンティノス・ラスカリス (1501年)
- Al-Ashraf Abu al-Nasir Janbalat (1501年没)
- アゴスティーノ・バルバリーゴ (1501年没)
- メスィフ・パシャ (1501年没)
- ニーラカンタ・ソーマヤージ (1501年)
同じ地域に関係する人物
- バイスングル (シャー・ルフの子) (1433年没)
- ドースト・ムハンマド・ハーン (1863年没)
- ギヤースッディーン・ムハンマド (1202年没)
- フサイン・バイカラ (1506年没)
- Sultan Muhammad bin Baysonqor (1451年没)