伝記
マックス・ホルクハイマーは1895年2月14日、シュトゥットガルト郊外のツッフェンハウゼンに、正統派のユダヤ系で裕福な家庭の一人息子として生まれた。父モーリッツはこの地に複数の織物工場を持つ実業家で、息子に家業を継がせようとしていた。ホルクハイマーはギムナジウムを中退し、1910年から実家の工場で働いて、のちに若手の管理職になった。この時期に、のちに学問上の同僚となり生涯の親友となるフリードリヒ・ポロックと知り合い、父の秘書だったローズ・リーケルとも出会った。ローズは8歳年上のキリスト教徒で、父は釣り合う相手とは考えなかったが、二人は1926年に結婚し、1969年に彼女が亡くなるまで連れ添った。
第一次世界大戦では1917年に徴兵されたものの、健康上の理由で兵役を免れた。1919年の春にミュンヘン大学に入学し、この地では革命家で劇作家のエルンスト・トラーと間違われて逮捕され、拘留されたこともあった。のちにフランクフルトへ移り、ハンス・コルネリウスのもとで哲学と心理学を学び、数年年下のテオドール・アドルノと出会って、生涯の友情と共同研究の関係を築いた。ゲシュタルト心理学の博士論文は挫折したが、コルネリウスの指導で、78ページの論文『目的論的判断力のアンチノミー』により哲学の博士号を得た。1925年にはカントの『判断力批判』を実践哲学と理論哲学の媒介として論じた論文で教授資格を得て、翌年に私講師となった。
1930年にフランクフルト大学の哲学教授となり、同年、カール・グリュンベルクの退任で空いた社会研究所の所長に選ばれた。研究所は、フェリックス・ヴァイルが相続した財産で始めたマルクス主義の研究会に起源があり、ポロックとホルクハイマーは初期の活動でヴァイルの協力者だった。ホルクハイマーは研究所を純粋な学術機関にすることに努め、正統的なマルクス主義の学派から、批判的な社会研究を行う異端の学派へと変えた。翌年には機関誌『社会研究誌』が創刊され、その編集者となった。マルクスとフロイトの見方を統合しようと、歴史的唯物論と精神分析の概念を体系的に結びつける試みを進めた。ナチ党が議会の第二党になると、研究所をドイツの外へ移す準備を始めた。1933年のナチ党の権力掌握後は教授資格を取り消され、1934年にスイスのジュネーヴを経由してアメリカへ亡命し、コロンビア大学で教えた。
第二次世界大戦後の1949年にフランクフルト大学へ戻り、社会研究所の所長に復帰して、同大学の学長も務めた。1954年と1959年には再びアメリカへ渡り、シカゴ大学でも教えた。1964年に大学を退職し、かつて彼に教授職への就任を阻まれたユルゲン・ハーバーマスが後任となった。主な著作には、アドルノとの共著『啓蒙の弁証法』(1947年)、『理性の腐蝕』(1947年)、1930年代に雑誌へ書いた論文をまとめた『批判的理論』などがあり、1920年代末から1960年代の断想は没後に『黄昏』として刊行された。ショーペンハウアーのペシミズムに共感を寄せていた。1973年にニュルンベルクで死去し、ベルンのユダヤ人墓地に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- Alois Podhajsky (1973年没)
- ヘンリー・ダーガー (1973年没)
- アンドレイ・アブリコソフ (1973年没)
- グリゴーレ・モイシル (1973年没)
- フェルディナント・シェルナー (1973年没)
同じ地域に関係する人物
- マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒター (1923年没)
- ヨハン1世 (バイエルン公) (1340年没)
- カール・フォン・バイエルン (1875年没)
- ヨーハン・ミヒァエル・ザイラー (1832年没)
- ルドルフ・シュンドラー (1988年没)