HISTORICAL PERSON · 1973年没

フランシス・マリオン (脚本家)

アメリカの映画脚本家。約25年間に150本以上の脚本・原作・翻案に参加し、アメリカ映画史上最も重要な脚本家の一人と認められている。

生涯
1973年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / ロサンゼルス)
出生地
アメリカ合衆国(サンフランシスコ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

フランシス・マリオンは1888年、カリフォルニア州サンフランシスコに、マリオン・ベンソン・オーウェンズとして生まれたとされる。生年月日は実際には不明で、「1888」年なら8が並んで幸運だと祖母が言い張ったためだという。名前はアメリカ独立戦争の軍人フランシス・マリオンにちなむ。12歳で学校をやめ、のちにサンフランシスコの美術学校で学んだが、1906年の大地震後の火災で校舎は失われた。その年に美術学校の19歳の講師と結婚し、作家ジャック・ロンドンの「出て行って生きよ」という助言に従って電話交換手や缶詰工場の仕事など、さまざまな職を経験した。やがてサンフランシスコ・エグザミナー紙の記者となり、モデルや女優、商業イラストレーターとしてもある程度成功した。結婚と離婚を重ね、生涯で4度結婚している。

第一次世界大戦中の1914年から1915年と1918年から1919年には、同紙の海外特派員としてフランスの戦線を取材し、女性として史上初の前線の戦場特派員の一人となった。休戦後にはライン川を渡った最初の女性でもあったという。映画界には、1914年夏とも1915年ともいわれるころ、ロイス・ウェバーの会社で助手や女優として雇われて入った。旧知のメアリー・ピックフォードからの誘いで脚本の仕事を始め、ピックフォード主演のために書いた脚本『捨て子』はネガが研究所の火災で失われた。その後ワールド・フィルムズで、お蔵入りになった映画に新しい序幕と終幕を書き足して喜劇に変えたことが認められ、脚本部門の責任者として約50本を手がけた。1917年にはピックフォード専属の脚本家として、年5万ドルの契約でフェイマス・プレイヤーズ・ラスキー社に迎えられた。ピックフォードとは友人としても芸術家としても、終生尊敬し合う仲だった。1919年に帰国すると、新聞王ハーストが週2000ドルで自社の製作会社の脚本を依頼し、そこで『ユーモレスク』を脚色した。

1920年代には3番目の夫の出演作のために数本の映画を監督しながら、脚本家としての地位を固めた。1927年に新人だったグレタ・ガルボのためにトルストイ原作の『アンナ・カレニナ』を脚色したことをきっかけに、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーの専属脚本家となった。1920年代末までに、ピックフォード、マリオン・デイヴィス、ロナルド・コールマン、ルドルフ・ヴァレンティノらのために脚本を提供し、全米一ギャラの高い脚本家となった。1930年にはガルボ初のトーキーとなる『アンナ・クリスティ』を脚本化し、60歳を越えて引退を考えていたマリー・ドレスラーを復帰させた。同じ年の『惨劇の波止場』はドレスラー主演で、ドレスラーはこの作品でアカデミー主演女優賞を得た。マリオンも、ウォーレス・ビアリー主演の『ビッグ・ハウス』と『チャンプ』で、アカデミー賞を二度受けた最初の脚本家となった。1936年には急逝した制作部長アーヴィング・タルバーグの後を引き継いだ。

1946年に正式にメトロ・ゴールドウィン・メイヤーを引退し、南カリフォルニア大学の映画学部で後進を指導しながら、小説や物語を書き続けた。サイレント映画から初期のトーキーまで約25年間に150本以上の脚本・原作・翻案に参加したとされ、325本を超える脚本を書いたともいわれる。1972年に回想録を出版した後、ハリウッドで死去した。

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